Iは黙っています。面接での「本当の自分」に対する正義感が、“泥つきニンジン”に負けそうなのです。理解はしているのです。なんか、負けたくない、という気持ちだけがもやもやとしている表情です。私は続けます。

ニンジンの泥を落としても、洗っても、切っても、煮ても、焼いても、ニンジンが持っている身体にいい栄養分がなくなるわけじゃないんだよね。

好き嫌いの代表格としてよくあげられるニンジンだけど、栄養があって身体にいいから少しでもおいしく食べてもらおうって、形を変え、整え、混ざり、味付けを変えてって、すごい努力をして食卓に上がってくるんだよね。

「じゃあ、私のよいところをもっとよく見せるために、わかりやすくするってことですか」

Iさんも、自分がニンジン畑に植わっているニンジンだとようやく気づいてくれたようです。

基準は「自分のため」でなく「人のため」

企業を食卓とするならば、就職活動は、泥を落とし、調理・加工するステップかも知れません。

自分がそうしたいからと、自分の思うようにしているのは、相手にとっては失礼に当たります。相手のために準備を整えても、自分自身が持つ本質は変わりません。むしろ、自分のよさをいかに伝わりやすくするか、と考えることから泥落としのステップが始まります。

面接で話せるように企業のことを調べたり、自分の事を理解してもらえるように言葉を準備したり、会う時間をいただけたことに感謝を示すために身なりを整えたりすることも、そんな風に努力することが相手への敬意を示すのです。

Iさんは、泥つきニンジンの話以来、「相手のため」と考えると行動できるようになりました。「私は化粧をするのが嫌い」と言っていたのですが、相手が、裸同然のスッピンで来るなんて信じられない、って感じる人だったらどうする?と言うと、「化粧も、自分のためじゃなくて、人のためにするんですね」と目を丸くしながらも、すっと納得してくれました。

そう、自分のためでなく、相手のために準備を整える、そんな自分もまた自分なのです。

就職塾向日葵が履歴書写真を撮り始めた理由

Iさんの就職活動が本格化する直前に、Iさんがモジモジとやってきました。

「あの、履歴書写真の撮影について来てくださいませんか。」

というのです。自分のためじゃなく、相手のために、いい顔で履歴書証明写真を撮りたいと写真館を予約したのですが、いったいどういう写真が、相手が期待する写真なのか、分からないから一緒に来てほしいというのです。Iさんの熱意に押され、ついていくことにしました。

はい、鏡で身なりを整えたら、椅子に座ってください。はい、ここ見てください。と、撮影は、Iさんの心の準備も出来ないままに始まりました。