僕はつくづく思うのだが、仕事の壁を乗り越えるためのヒントや、進路に迷ったときのアドバイスなどの大事な言葉は、だいたいにおいて小声で、それも囁かれるように語られる気がしてならない。
 それを痛感した経験があるのだ。

 新人時代の話である。僕はビジネス誌の新米記者で、秋晴れのある月曜日、列車に揺られていた。目的地は全国でも指折りの中小工場が集まる町である。その数は部品メーカーや金属加工メーカーを中心に数百社に達し、家電や精密機器、自動車など輸出産業の下請けとして日本のモノ作りを支えていた。
 与えられた仕事は、そんな下請け工場の実態をリポートすることだった。
 取材にあたり、僕には一つの切り口があった。日本の輸出産業を足元で支えてきた下請け工場は円高で苦しんでおり、町で生き残れるのは部品メーカーや金属加工メーカーではなく、数少ない製品メーカーではないか、というものだ。

 実はそれは東京での事前の取材で、ある経済評論家に吹き込まれた見方だった。彼は町を代表するある製品メーカーを例に挙げ「こういう会社にならなければだめなんですよ」と力説した。
「下請けはいま本当に厳しいですよ。元請けから無茶なコストダウンを求められていますからね。内需拡大に湧いている不動産やリゾートとは違ってどこも青息吐息です。要するに製品メーカーにならなければだめなんです」
 彼がなぜそこまでその製品メーカーを誉めちぎるのかよくわからなかったし、下請けをどこか見下している態度も気になったが、声高に語る彼の意見には説得力があると思った。

 夕刻、町に着き、翌朝から企業経営者への取材を始めた。意識したのは下請けの辛さを象徴するコメントやデータである。初めての長期にわたる地方取材は新鮮で、一日五、六件の取材が数日間続く強行軍もほとんど苦にはならなかった。
 取材を始めて三日目のことだ。僕は飛び込みで一軒の零細工場を訪ねた。そこは金属部品の加工メーカーで、掘っ立て小屋のようなプレハブの建屋で工場主と奥さんの二人が働いていた。
 NC旋盤を操作していた工場主はビジネス誌の記者の突然の訪問に驚きながらも取材に応じてくれた。四十代前半、シャイでぼくとつな人で、グレーの作業着を着て、指が機械油で黒く汚れている。

「やはり円高の影響は出てきていますか」
 僕は誰にもするのと同じ質問をした。
「それはありますよね」
「厳しいですか」
「まあね」
 工場主はNC旋盤を動かしながら苦笑した。
「この町自体、大変ですよね」
 さらに同意を求めると、工場主は小首を傾げ、ぽつんと小声で言った。
「でも、この町には自主独立の伝統があるからね。きっとなにがしかの工夫と我慢でしのいでいくんじゃないかな。実際、そういう会社はいくつもあるからね」
 自信なさげに語られたその言葉を聞いて、何かが僕の頭をよぎった。でも僕はその感覚を大事にせず、すぐ次の質問に移ってしまった。月商、利益はどのくらいかといったことだ。
「記者さんも大変ですね」
 工場の隅にある古びたデスクで帳簿をつけていた奥さんが冷たい麦茶を出してくれた。