人は誰でも独創的な新しいことをやってみたいと思うものである。それは人間の本性であり、人間の進歩のルーツはここにある。新しいことをやってみたいとは思うが、なかなかやれない。どうなるか分からないことをなかなかうまく説明できないので、周りの協力も得られない。新しいことをやろうとしている人は多いけれど、実際やれる人は極めてわずかである。どうすれば人が驚くような新しいことがやれるのだろうか? 鍵はスタートにある。

周りは大反対、スタートも切れない

 米国留学から帰って来た私は新しいものをやろうと意欲に燃えていた。それは1978年10月ごろであった。一方で、今まで担当していたDRAMの開発も私を待っていた。私の次の担当は256KビットDRAMであり、それは1981年1月から特別研究となった(1982年9月まで)。1980年度はその準備に充てねばならなかった。従って、1978年度後半と1979年、合わせて1年半は本当に希少貴重な自由な時期であった。

 そこで自ら発案の新しいテーマに取り組んだ。そのテーマを「N-Well CMOS DRAM」と言う。DRAMのデバイス・アーキテクチャを一新しようというものだった。まだ誰もやったことがないCMOSでDRAMを作ろうという野心的な研究であった。それまではずっとNチャネル型のトランジスタ(NMOS)だけを使ってDRAMを作っていた。作り方が単純であり、コストが低かったからである。

 しかし、よくよく将来性を考えてみると、消費電力が動作時でも待機時でも大きく、集積度1Mビットに達したころには安価なプラスチック・パッケージが使えなくなるような電力になりそうだった。プラスチック・パーケージが使えなくなることはDRAMにとってコスト面で大いに問題であった。

 検討を深めると、NMOSは回路設計が複雑になり設計工数がかかることや、基板電流と呼ばれる制御しがたい漏れ電流対策が大変難しくなることに気が付いた。NMOS全盛期ではあったが新しい技術を考えなければならないと私は判断した。そして考え付いたDRAMのCMOS化はこれらを一挙に解決するものであった。

 しかし案の定、「本当に性能が出せるのか」「コスト・アップが大きく量産化は無理ではないか」といった大きな反対論に遭遇し、のっけからつまずいた。私のユニットでもコスト・アップが懸念され、提案は通らなかった。これでは予算提案もできないので、スタートもできない。そこで私は予算を獲得するために、部長に直談判した。そのため事態は更に悪化し、孤立無援となった。

 自分のユニット内で協力は得られなかったので、私は部内の別のユニットを探した。運よく2人の協力者が得られたので、私も含め都合3名でこのテーマをスタートさせたのである。一方、開発部門も乗り気ではなかったが、違う事業部に属するためかあまり明確な意思は示さず、まずはお手並み拝見といったところであった。新しいテーマは難産であり、先行きも定かでない出発となった。さて、こういう状況は稀なのであろうか、普通なのであろうか?

すべての人が反対ではない

 程度の差はあれ、こういう状況は普通である。新しいことをやる場合、多くは反対論で囲まれる。それは当たり前である。すべての人が賛成して「どうぞやってください」と言うようなテーマなぞ、やる価値は無い。研究開発の場合は特にそうである。