困った。バスに揺れながら泣きたくなっていた。部下も一緒だから弱気な表情はできない。彼もシュンとしている。無理もない、必ず動くと信じていたのだ。念入りにチェックした。設計が原因で動かないとすると、多分、自分たちにはどうにもできなかったのだ。それは神のみぞ知る、そう思うしかなかった。

 膝の上にはプラスチック・ケースに入ったウエハーが乗っていた。恨めしくそれを眺めながら、「この後どうしようか」という思いにふけっていた。困った。本当に困った。「ショートだよな」「はい、何度やっても」。彼はこういう測定のプロであり、間違うはずはなかった。それでも、かすかな望みをつないでバスは武蔵工場に着いた。二人でトボトボ歩いて中央研究所に帰ってきた。世間では夏休み、お盆の午後4時を回ったころだった。

命運を懸けた雪辱戦、4M DRAM開発

 私は日立製作所の大掛かりな製品化プロジェクト「MHプロジェクト(メモリ必勝プロジェクトの略)」で4M DRAM(dynamic random access memory)開発のリーダーとして、研究所から開発センターに1984年4月から長期出張していた。日立は前世代の1M DRAMの製品開発競争で後れを取った。新構造のメモリ・セルを開発したが、製造性の検証が遅れたのである。私は当時別の仕事をしていたが、急きょ呼び戻され乾坤一擲(けんこんいってき)の挽回を託されたのである。

 新技術開発のつまずきで、研究所と開発センターおよび事業部との間はギクシャクしていた。研究所は1M DRAMの新技術としてTTC(trench capacitor cell)を提案した。1981年のことである。DRAMの基本単位(1ビット)をセルというが、それはトランジスタと容量それぞれ1個ずつで構成されていた。製造技術の制約からそれらは横に並んで作られており(平面構造)、1ビットの面積はおのおのの面積の和となっていた。

 この容量の占める面積を小さくし集積度を上げようとして開発されたのがTTCで、下地のシリコン(Si)に穴(trench)を掘るという奇抜な技術であった。例えれば、地下室を作ることによって、同じ建坪でも居住面積を広くしたようなものである。学会でも話題となったが、しかしそれは製品化でつまずいた。製造が難し過ぎたのである。こうして4M DRAM開発は日立の半導体の命運を懸けた雪辱戦となり、私はその真只中に立っていた。

テスト・スイッチが入った、その瞬間……