産業の盛衰が激しい中、新たな技術を生み出すベンチャー企業の社会的な役割は大きい。機械学習やディープラーニングなどの技術で世界最先端を走るPreferred Networks(本社東京、PFN)の長谷川氏はもともとソニーにいた技術者だったが、PFNのとがった技術にほれ込んで転職を決めた。経験を積んだ技術者として優れた技術を社会に実装するための橋渡しを担う。

 挑戦か、安定か。一瞬そんなことを考えましたが、結局ソニーを飛び出してベンチャー企業に赴くと決めました。決め手となったのは、そこにぶっちぎりのソフトウエア技術があったからです。そんな技術に挑戦するベンチャー企業に、若かりし頃のソニーを重ねてしまいました。

デジタル時代へ、そして転職

 ソニーに入社した1986年、そこはまだアナログ技術が天下だった時代です。私はビデオ事業部に配属されました。職人と呼ばれるような人たちもいて、製品の品質は彼らの腕の良さに寄るところが大きかったように思います。

 しかし、状況が大きく変わり始めます。だんだんと現場にデジタル技術が入ってきたのです。アナログ技術と違い、デジタル技術は大規模なシステムを造れるというメリットがあります。ソニーでも多くのデジタル技術者が雇われるようになりました。

 それと同時に、製品のコモディティー化が加速していったんです。「他の誰もやらないような技術を生み出せ、ぶっちぎりの技術で勝負しろ」。ソニーは技術者にそう伝えて製品開発を任せてくれる会社でした。しかし、ぶっちぎりだった製品群も時を経るとシュリンクしていき、事業縮小を余儀なくされる。私は、そういった時代の変化を目の当たりにしました。

 ただ、こうした中でぶっちぎった開発をしていると強く感じた製品の1つに据置型ゲーム機「PlayStation 3」があります。私はPlayStationの生みの親である久夛良木健さんの下で開発に携わりました。久夛良木さんはPlayStation3を単なるゲーム機としてではなく、エンターテイメント向けの次世代コンピューターとして産み落とすべく開発を進めていました。PlayStation 3のためだけにOSやプロセッサーなどが開発され、私は誰もやろうとしてこなかったことに携わっているんだと、気持ちを高ぶらせました。しかし、久夛良木さんが副社長から外れたあたりでしょうか、誰もやらないことをやろうという勢いが社内で弱くなったように思いました。

 社内の変化を肌身で感じていた頃、私はPlayStation機器に向けたオンラインサービス「PlayStation Network」のログ解析のためにめぼしい技術を探していました。そしてPreferred Networks(PFN)の創業者である西川と岡野原の論文に目が留まりました。技術力の高さに舌を巻いたことを覚えています。私は彼らが所属するPreferred Infrastructure(PFI)というベンチャー企業に接触し、転職を決めてしまいました。不安がなかったといえば嘘になるでしょう。年収も半分になりましたからね。ただ、技術者として引きつけられる力にあらがえませんでした。同時に、誰もやっていない技術に挑戦する「第2のソニー」を生み出したいという気持ちも芽生えていました。