「『アルマ』で期待した通りのものが見えるかどうかは不安だったんです。しかし、期待通りのものが見えた。これからは、期待を越す発見が続くはずです。
17世紀の初頭、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は望遠鏡の発明を聞いてそれを自作しました。その、当時のモノを見る最先端の道具で星などを観測したことで新しい天文学が誕生したんです。それは今も変わっていません。
新しい道具によって想像を超えるものが発見される、それが天文学です。しかし、実際に作ってみなければ何が見えるかわからない。
国への予算請求では『これを作ればこういうものが見えます』という説明が求められるんですが、作ってみなければ何が見えるか、何が発見できるかはわからないのが辛いところです。それが天文学というものですから」
息苦しさを吹き飛ばす
「アルマ」は、1982年3月に長野県の野辺山に世界最大、口径45mの電波望遠鏡が完成した数年後から、次世代の電波望遠鏡のシステム構想として議論が始まっている。当初は、日本が80台ものパラボラアンテナからなる電波望遠鏡(干渉計)を建設するという壮大なものだった。後、それは思いを一にする米・欧との国際協力プロジェクトに発展し、日本が大きなイニシアチブをとってきた。
だが、具体的なプロジェクトが進展し米・欧が予算を確保したにもかかわらず、日本政府(おもに小泉政権時代)は予算を拠出しないままずるずると引き延ばし続けた。しびれを切らした米・欧は、「日本政府はやる気がない」と、2003年、日本抜きの欧・米のみで「アルマ」のプロジェクトを開始してしまった。
日本政府がやっと「アルマ」に256億円の予算を拠出したのは、その1年以上後のことなのである。
予算を出したとはいえ「後出しジャンケン」ゆえ、日本は欧・米よりも小さい規模で参加するしかなかった。それは、林さんが言うように、日本では「作ってみなければ何が発見できるかはわからない天文学」というものへの理解が十分ではなかったためかもしれない。バブル崩壊後の緊縮財政下であったこともあるが。
だがその負い目の中で、遅ればせながら参加した日本は、「アルマ」の「アルマ」たる部分、サブミリ波と呼ぶきわめて波長が短い電波を受信するための技術開発に成功。アンテナの数では欧米の25台ずつにおよばぬ16台にとどまったが、「アルマ」のシステム全体に対してきわめて大きな貢献をなしとげることができた。
そういう「アルマ」の30年におよぶ辛酸の日々は、取材を続ければ続けるほど部外者である私ですら息苦しくなるほどだったが、『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』というノンフィクションとして出版にこぎつけた。
2014年11月に公開されたおうし座「HL星」は、そういうアルマ実現までの30年におよぶ厳しい日々の記憶をすべてぶっ飛ばしてくれたのである。