1961年に開発されたシリコン・プレーナ集積回路(IC)により「論理の時代」が到来し、集積回路が多くの応用分野のシステムに大量に使われるようになった。米国においては、独立系半導体会社が次々と設立され、半導体産業が新産業として成長していった。

 1960年代後半に入ると、米国の半導体産業界は、大規模集積化回路(LSI)技術をメモリーに応用し、SRAMメモリーやシフトレジスタ型メモリーの開発に成功した。続いて、今日のパソコンの主メモリーに大量に使われている1KビットのDRAMメモリーの開発に着手した。また、軍事用のICやLSIの生産も活発に行っていた。

 勢いづく米国の半導体産業界は、さらなる成長を求めて、LSIの応用先として大量販売が期待できる日本の電卓業界に注目し始めた。一方、日本の半導体産業界は、米国より4年ほど遅れており、米国の半導体技術と製品に追いつくのがやっとだった。とても、電卓用LSIを発注できるレベルには達していなかった。

 日本の電卓業界は、LSI化による、低価格化、軽量化、高信頼性化、そして高性能化と多様化への道を模索した。1968年に、早川電機工業(1970年にシャープに社名変更)がノ-スアメリカン・ロックウェル(現在のロックウェル・インタ-ナショナル)社に開発を依頼した4相クロックを用いた5チップ構成(クロック用LSIも含む)のLSIによる電卓を発表した。そのLSIの合計使用トランジスタ数は約3,460であった。電卓業界は電卓のLSI化に向けて一斉に走り出した。

 1968年末頃の電卓のLSI化には3通りの開発方法が米国半導体会社から提案されていた。その頃、新しい半導体技術や製品はすべてと言っていいほど米国で開発された。

 1番目の方法として、フェアチャイルド社は、ランダム論理LSIの設計を効率良く行うために、スタンダ-ドセルとCADを使った開発手法を提案した。しかし、配線領域が増え、チップ・サイズが大きくなり、高コストとなり、ユーザーには受け入れられなかった。2番目の方法として、ナショナルセミコンダクター社は、ROMを使って電卓の仕様を変更できるプログラマブルLSIを提案した。しかし、多くの電卓会社の異なる要望を受け入れようと、非常に多くの種類の複雑なマクロ命令を実装しようとして失敗した。3番目の方法は、電卓会社の用意した論理図に基づいて、半導体会社の技術者と電卓会社の技術者が共同して手作業で回路設計とレイアウト設計を行う方法であった。

 ビジコンは、米国の調査会社に依頼して、共同開発の可能な半導体会社の調査とLSI設計に必要な技術情報の入手を開始した。1968年末にプロジェクト・チームを作りLSI化の検討を開始した。プロジェクト・チームは3人で構成された。プロジェクト・マネジャーの増田氏と、米国滞在の経験のある高山氏と私だった。私は一番下の技術者として、応用システムと次世代10進コンピュータの仕様とLSI設計手法の検討を担当した。LSI設計に関する技術書をノートにまとめながら勉強した。入手した技術書で使われている半導体プロセスは前世代のメタルゲートMOSプロセスであった。実践的な回路例はあまり多くなかったが、レイアウト設計までを含むLSI設計への下準備はできた。

 ビジコンは共同開発先として、設立間もないインテルとモステックを選択した。両社共、高密度実装と高性能が実現可能な新世代半導体プロセスであるシリコンゲートMOSプロセスの開発に成功していた。また、信頼に足る経営者がいることも重要であった。インテルにはノイス博士(R.N.Noyce)がいた。