「以前はコーチのアドバイスに『OK』とは言っても、内心では同意していないこともあった。しかし今は、iPadで実際に起きたことを示されるとコーチの指示に従わざるを得ない。データが唯一の判断基準になった」

女子プロテニスのアンゲリク・ケルバー選手。元世界ランキング1位でグランドスラムで2回の優勝経験がある
女子プロテニスのアンゲリク・ケルバー選手。元世界ランキング1位でグランドスラムで2回の優勝経験がある
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 この発言の主は、女子プロテニスのアンゲリク・ケルバー選手。2016年には全豪オープンとウィンブルドン選手権という2つのグランドスラム大会で、シングルス優勝を飾り、世界ランキング1位(2017年10月末時点で19位)にもなった、トップ選手の一人である。

 ケルバー選手が戦いの場としている女子プロテニスは、スポーツ界の中でも最もデータの活用が進んでいる競技の一つと言っても過言ではない。競技団体であるWTA(女子テニス協会)は2015年シーズンに、「オンコートコーチング」において、コーチがiPadを使って試合のデータのリアルタイム分析を選手に見せながら、戦術や修正点についてアドバイスすることを認めた。

 オンコートコーチングとは、1セットにつき1回、ゲーム間ないしセット間にコーチがコート内に入って選手にコーチングできる仕組みである。WTAは2008年シーズンにそれを許可。導入によって、選手が試合中にコーチのアドバイスをもらえるようになり、接戦が増えたという。「試合内容に確実に変化が起きた。選手はこれまで、コート上では100%孤独だった。でも、今ではプレーのリズムが悪い時に、コーチからアドバイスをもらえる」(ケルバー選手)。さらに、2015年シーズンからは試合中に対戦相手や自分のプレーをデータで振り返ることができるようになったことで、さらに拮抗した試合が増えているという。

 昨今、ボールや選手のトラッキングシステムの普及によって、プロスポーツの世界では試合のデータを取得して、戦術の構築やトレーニングに活用するのはもはや“当たり前”の状況になっている。しかし、取得したデータをリアルタイムに分析して、コーチングすることが許可されているスポーツは現状、わずかしかない。実はテニスでも、グランドスラムを管轄するITF(国際テニス連盟)やATP(男子プロテニス協会)はオンコートコーチングを認めていない。

 なぜ、WTAはこの先進的な取り組みを導入したのか。そして、どのような技術を使ってこれを実現しているのか――。日本スポーツアナリスト協会(JSAA)が主催したイベント「女子プロテニスを変えるデジタル革命」(開催:2017年9月19日)で明らかになった。

トップで居続けるために改革必要

SAP社Global Technology LeadのJenni Lewis氏。「私はSAP社で一番楽しい仕事をしている」と語る
SAP社Global Technology LeadのJenni Lewis氏。「私はSAP社で一番楽しい仕事をしている」と語る
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   この革新的な取り組みは、WTAとドイツIT(情報技術)大手のSAP社との長期間のパートナーシップの中で生まれた。SAP社は9年前から、プロテニスの大会に関与している。最初は試合を見に来る観客への情報提供などから始め、次のステップとして自社の技術を大会の運営に活用し、現在では「SAP Tennis Analytics for Coaches」というアプリケーションを通じて、選手やコーチに試合のデータを提供している。

 その責任者が、同社Global Technology LeadのJenni Lewis氏である。彼女はこの仕事を5年前にアサインされ、「誰といかにパートナーシップを結び、どうしたらSAP社の技術をテニスのリアルタイム分析に生かせるかを模索し始めた」(Lewis氏)。そして、名乗りを上げたのがWTAだった。

WTA Director, PartnershipsのAmy Hitchinson氏。1年中世界を飛び回っているので、「飛行機やテニスコートも仕事場になる。どこにいても仕事ができるよう、WTAが使う業務ソリューションの多くはクラウドベースになっている」と話す
WTA Director, PartnershipsのAmy Hitchinson氏。1年中世界を飛び回っているので、「飛行機やテニスコートも仕事場になる。どこにいても仕事ができるよう、WTAが使う業務ソリューションの多くはクラウドベースになっている」と話す
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 「WTAは女子プロスポーツで世界トップの価値を誇る。この地位に居続けるにはコート上でも、ビジネスでも進化・改革を続けなければいけない」。WTAでパートナーシップを担当するDirector, PartnershipsのAmy Hitchinson氏は言う。

 2006年にはビデオカメラの映像認識によってボールのイン・アウトをライン判定する「Hawk-Eye(ホークアイ)」(現在はソニー傘下の英Hawk-Eye Innovations社)を導入。2008年にはオンコートコーチングを認め、さらにテレビ放送向けに試合のデータを提供するなどして視聴者の体験も向上してきた。WTAはイベントをさらに進化させるために新たなパートナーを探しており、SAP社の提案に興味を持った。