「3年間、選手やコーチに意見を聞きまくった」
プロテニスのトーナメントは1年の大半、世界を転戦する。WTAの場合、33カ国で57イベントを開催している。このため、WTAは世界4カ所にオフィスを持ち、約100名のスタッフが24時間体制で働いている。「SAP社は自社のソリューションを提案する前に、こうしたWTAの事情を、時間をかけて理解するように努めてくれた。まず、お互いを知り、そして一緒に世界を回るファミリーになった」(Hitchinson氏)。SAP社をパートナーとして選んだ理由を、同氏はこう言う。
実際、SAP社は選手・コーチ向けの分析アプリを、長い時間をかけて開発した。「設計を始める前に、3年間はツアーに帯同して選手やコーチにどんなデータが欲しいのか意見を聞きまくった。取得するデータは膨大にあるので、どんなデータに絞って見せたら役に立つかを聞いた。そして、4年目からアプリの開発を具体化した」(Lewis氏)。闇雲にすべてのデータを見せるのではなく、ユーザー視点を貫いたのだ。
では、なぜSAP社というIT企業がテニスというスポーツ向けのソリューション開発に力を入れるのか。「ボールのトラッキング技術は、(他業界の顧客が求める)荷物や車両のトラッキングに応用できる。つまり、ここで得た知見を横展開できる」とLewis氏は説明する。
SAP社はテニス以外にも、複数のスポーツに自社の技術を適用して独自のソリューションを開発していることで知られる。例えば、サッカーではドイツのプロサッカー1部リーグに属するTSG 1899 ホッフェンハイムで、脛(すね)あてにセンサーを入れて選手の動きをモニターし、プレーを効率化するための分析をしている。勝敗が明らかなスポーツは格好の“テクノロジーショーケース”である上、トラッキング技術などを鍛えるのに適した実験場にもなる。
データ分析で「5~10%は実力アップ」
SAP Tennis Analytics for Coachesは、コートに設置された8台のビデオカメラ(他に2台が選手の動きをトラッキング)でボールをトラッキングするHawk-Eyeの生データをクラウド上に集積し、選手やコーチから要望の多かったデータや分析結果を専用アプリ上で表示する。データは15秒に1回更新される。
コーチはオンコートコーチングの際に、WTAが公認したiPadをコート上に持ち込んで、選手にアドバイスできる。アプリ上で参照できるのは、試合のテレビ放送でもよく紹介される、サーブの確率やウィナー(ラリーで相手にボールを触れられずに取ったポイント)、アンフォーストエラー(自分からミスをしたショット)の本数などのほか、サーブを打った方向(フォアサイドかバックサイドか)、フォアとバックのストロークについてコート上のどこから打って、相手コートのどこに着地したかなどがボールの軌道で示される。
こうしたデータから、例えば「相手に押し込まれてミスをしているので、もう一歩ラリーする位置を下げた(自陣の後方に下がる)ほうがいい」などと、試合中に戦術や修正点について確認ができる。「これまでは試合中に選手に指示する際、根拠となるデータがなかった。決してコーチが不要になるわけではないが、データが手元にあることによってコーチが選手にアドバイスしやすくなった」(Lewis氏)。
なお、試合のすべてのデータはSAP社のクラウド上に蓄積されている。アプリはブラウザー上で動作するので、どんなモバイル端末でも「いつでもどこでも」参照できる。もちろん、試合前や試合後もチェックできる。
ケルバー選手は、「試合前に対戦相手のデータを見たり、試合後はデータでその日のプレーを振り返ったりする。データは私に、より自信を持たせてくれる。5~10%は実力が上がっている感じがしており、これは世界のトップレベルでは重要なこと」と述べる。
「重要視しているデータは、相手がどういうプレーをしているのか、どういうサーブをどこに打っているのか、ショットは浅いのか深いのか。それらをチェックして戦術を立てるのに使っている」(同氏)。
リアルタイム分析というデジタル革命がスポーツの“戦いの場”にまで押し寄せてきたことによって、アスリートにはフィジカルな能力や競技のスキルだけでなく、「データを上手に活用する力」も求められるようになってきたと言えよう。