「ボールをよく見て打て!」。野球経験者ならコーチに、一度は注意されたことがあるだろう。確かにボールから目が離れていてバッティングの精度が落ちることはよくあるが、実は見過ぎても逆効果になってしまう。科学がそれを証明している。

 野球では、ピッチャーのボールが手を離れてからホームベースを通過するまでに0.5秒程度の時間しかない。最速165km/hを投げる、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手の場合は約0.4秒だ。

 しかし、この短時間にボールの軌道を見極めスイングするかを意思決定し、それから動いていたのでは絶対に間に合わない。人間ではモノが見えて認識をする脳内処理に0.2秒程度の時間が必要で、そこからバットを振るにも同程度の時間がかかるからだ。

 つまり、バッターは反復的な練習によって「脳」が身体のコーディネーションを学習し、本人がボールの軌道を知覚するよりも短時間に動いてボールを打っている。

 これは、肉体を駆使して競うスポーツにおいて、「脳」がいかに重要かを示すほんの一例に過ぎない。試合における展開の予測、瞬時の意思決定、さらにパフォーマンスに大きな影響を与えるメンタルなど、脳が担っている役割は膨大だ。ところが、これまでアスリートの脳の働きとパフォーマンスとの関連性は明らかになっていない。

 その謎の解明に、日本電信電話(NTT)が本気で取り組み始めた。同社は2017年1月、「スポーツ脳科学(Sports Brain Science:SBS)プロジェクト」を正式に発足した。これまで研究を重ねてきた脳科学の知見とICT(情報通信技術)を駆使し、アスリートのパフォーマンスと脳における情報処理の関係を明らかにする。これを通じて、脳を鍛えてパフォーマンスの向上を支援する新しいトレーニング法の確立を目指す。加えて、才能の発掘など選手育成につながる知見も獲得したいという。

「スマートブルペン」の様子。ウエアラブルセンサーを身に着けた投手と打者が対戦し、生体情報をリアルタイムに計測できる。打者は、視線を追跡する「アイトラッカー」もかけている。写真は東大野球部の選手
「スマートブルペン」の様子。ウエアラブルセンサーを身に着けた投手と打者が対戦し、生体情報をリアルタイムに計測できる。打者は、視線を追跡する「アイトラッカー」もかけている。写真は東大野球部の選手
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 当面の研究対象は、野球とソフトボール。東京大学野球部(部員約50人)と慶応義塾体育会野球部(同約200人)などの協力を得て、試合や練習時などの選手の身体状態を各種センサーを使って計測する。

SBSプロジェクトのリーダーを務める、NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員の柏野牧夫氏。毎日ピッチング練習をし、自ら被験者を務める(写真:NTT)
SBSプロジェクトのリーダーを務める、NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員の柏野牧夫氏。毎日ピッチング練習をし、自ら被験者を務める(写真:NTT)
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 SBSプロジェクトのリーダーを務める、NTTコミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員の柏野牧夫氏は「これまでの実験室での脳科学研究と、スポーツをしているリアルな状態での計測結果を組み合わせて解析する点に意義がある」と話す。

 拠点となる、神奈川県厚木市のコミュニケーション科学基礎研究所には、脳機能の計測装置を設置した実験室に併設して、本格的なブルペンが設置されている。ピッチャーやバッターの練習時のパフォーマンスや生体状態をリアルタイムに計測できる「スマートブルペン」だ。

 プロジェクトでは、実験室やスマートブルペンでの計測に加え、実戦での生体情報計測やVR(仮想現実)を活用した計測も併用する。多角的なセンシングと脳科学の知見を基にした解析で、“アスリートの脳”に挑む。

SBSプロジェクトでは、実験室での脳機能計測、スマートブルペン、VR(仮想現実)を活用した計測、実戦での計測の4つを併用する(図:NTT)
SBSプロジェクトでは、実験室での脳機能計測、スマートブルペン、VR(仮想現実)を活用した計測、実戦での計測の4つを併用する(図:NTT)
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