日本スポーツ振興センター(JSC)が2016年4月に開設した、「ハイパフォーマンスセンター」。その名称の通り、先端技術を駆使してトップアスリートの競技力向上のための研究・支援をするのが主な目的だが、描いているビジョンは壮大だ。アスリートのキャリア支援、知財の提供によるビジネス化、海外展開など、まさに今後のスポーツ産業の発展を引っ張っていく存在を目指す。

 久木留毅氏(専修大学教授でJSC ハイパフォーマンス戦略部長)、田中ウルヴェ京氏(ソウル五輪シンクロ・デュエットの銅メダリストで、現在は会社経営の傍らメンタルトレーニング上級指導士として活躍)、そして神武直彦氏(慶應義塾大学SDM研究科准教授でハイパフォーマンス戦略部マネージャー)の3者対談による連載『「ハイパフォーマンスセンター」が目指す未来』の第3回では、ハイパフォーマンスセンターによる「デュアルキャリア」のサポートや企業との連携、海外展開などに話がおよんだ。

左から田中氏、神武氏、久木留氏。東京港区の秩父宮ラグビー場にて(写真:加藤康)
左から田中氏、神武氏、久木留氏。東京港区の秩父宮ラグビー場にて(写真:加藤康)
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神武 ハイパフォーマンスセンターでは、アスリートの競技力向上のためのパフォーマンスの改善やけがの防止などについて技術的な支援をするのが大きな役割ですが、「デュアルキャリア(「人としての人生」と「競技者としての人生」を同時に送ること)」という面については具体的にどのような取り組みをされるのでしょうか。

久木留 ハイパフォーマンスセンターを利用するのは五輪やパラリンピックに出場するトップアスリートはもちろん、日本オリンピック委員会(JOC)のエリートアカデミーに所属するアスリートも利用します。エリートアカデミーには、一番下は小学校高学年から、上は高校生までいます。

 その子たちにも「デュアルキャリア」の考え方を浸透させることは、中長期的に見て大きな取り組みになります。そのためにどのような教育コンテンツを投入するか試行錯誤したり、プロスポーツ界ではまだなじみがありませんが、「コンピテンシー」(職務や役割における効果的ないしは優れた行動に結果的に結びつく個人特性)を浸透させる必要性も感じています。

 「デュアルキャリア」の例として最も分かりやすいのは、今年(2016年)、国民栄誉賞を受賞した女子レスリングの伊調馨選手です。実は彼女は、これから先の進路でいろいろ悩んでいます。2020年の東京五輪に出場するか否かも大きな決断になりますが、長期的な視点で考えていく場合に「社会との接点が薄い」のが弱みの一つだと言っています。

 彼女はこれまで、五輪で4回も優勝しています。リオ五輪ではラスト5秒で逆転し、2008年の北京五輪でも同じように接戦で勝っています。いずれも土壇場で“どちらに行くか”を瞬時に判断し、勝利をつかんだのです。

 リーダーシップにおいて最も大事なものが判断力だとすれば、彼女のそれは確実に優れています。つまり、彼女のコンピテンシーは高いはずです。だけど、本人も社会もそれを認識していないことが問題です。

 スポーツ庁が2016年10月3日に発表した「競技力強化のための今後の支援方針(鈴木プラン)」の6本柱の5番目に、「ハイパフォーマンスの統括人材の育成」とあります。ハイパフォーマンスセンターは将来、日本そして世界のリーダーになっていくような人材の育成を支援するプログラムを用意します。我々の役割として、デュアルキャリアに関するさまざまな情報や、アスリートのネットワークを強固にするための情報の提供は、大きな意味を持っていると考えています。

田中 今、米国では、例えば40代、50代、60代の女性オリンピアン(五輪出場経験者)が、世界の若手オリンピアンのメンター(指導者・助言者)になるというシステムがあります。

田中ウルヴェ京(たなか・うるう゛ぇ・みやこ)。ポリゴン 代表取締役。1967年東京生まれ。1988年にソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。10年間の日米仏の代表チームコーチ業とともに、6年半の米国大学院留学で修士取得。現在、学術研究者・経営者の両面の顔を持つメンタルトレーナーとして活躍中。様々な大学で客員教授として教鞭をとる傍ら、慶應義塾大学大学院SDM研究科博士課程に在学中。2001年に起業し、アスリートからビジネスパーソンなど広く一般にメンタルトレーニングを指導(写真:加藤康)
田中ウルヴェ京(たなか・うるう゛ぇ・みやこ)。ポリゴン 代表取締役。1967年東京生まれ。1988年にソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。10年間の日米仏の代表チームコーチ業とともに、6年半の米国大学院留学で修士取得。現在、学術研究者・経営者の両面の顔を持つメンタルトレーナーとして活躍中。様々な大学で客員教授として教鞭をとる傍ら、慶應義塾大学大学院SDM研究科博士課程に在学中。2001年に起業し、アスリートからビジネスパーソンなど広く一般にメンタルトレーニングを指導(写真:加藤康)
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 私は日本人ですが、世界のいろいろな国の女性オリンピアンと接する機会があります。すると、女性ならではの「キャリアトランジション」、つまりアスリートとしてやってきたキャリアを次のキャリアにどう転用するか(英語では「トランスファラブルスキル(transferable skills)」という)を、やはり先輩オリンピアンがきちんとスポーツとビジネスの両面から説明できる能力がなければならないと感じています。

 こういったトランジション時に、アスリートが身に着けていく必要があるのが「セルフアウェアネス(self-awareness)」、いわば「自己認識能力」です。引退したときではなく、引退すると決めてあと2年は競技を続けるみたいなときこそ、これが重要になってきます。

 どのようなものかというと、「あなたは何を考え、何を感じる人間ですか」という価値観のようなものを、自問自答し、突き詰めて考える能力です。米ハーバード大学の学部でこれに関する必修講義ができたほどです。一方で、残念ながら日本は遅れているといわれています。

 私が選手に対する心理コンサルティングを始めてから20年ほどになりますが、「五輪のメダリストはこうあるべき」という過度な一般化によって、自分のキャリア選択の枠を狭めてしまっている選手は多いです。例えば引退した選手が次のキャリアを考えるとき、漠然と「スポーツ選手だったキャリアを活かすには、スポーツ業界で働くのがベストだろう」とイメージしたりします。しかし、それは本当に本人のやりたいことでしょうか。そのとき、もしも「自己認識能力」の重要性を理解し、「自分が競技をしていた本当の理由」や「人生の価値観」などを自己客観視という手法によって整理する時間を取ると、「引退後のキャリア」について視野が広がり、「自分ならでは」のキャリア選択をできるようになります。

 久木留さんがハイパフォーマンスセンターの戦略部長に就かれたので、私はアスリートのさらなる競技力向上のために、そしてデュアルキャリアの推進のためにも、しっかりとセンターの中に、脳科学や神経科学のアプローチも含めた多様なスポーツ心理学を取り入れて欲しいと考えています。そのためには、学術的な根拠を伴っている日本スポーツ心理学会などがもっと能動的に発信力を高めていかなければいけないとも思っています。

神武直彦氏がプログラムディレクターを務める「スポーツビジネス創造塾」が2017年10月30日に開講します(主催:日経BP総研 未来研究所)。同氏がワークショップのファシリテーターとして、受講者と一緒に「ポスト2020」のスポーツビジネスの未来を考えます。