本記事は、電子情報通信学会発行の機関誌『電子情報通信学会誌』Vol.100 No.9 pp.968-973に掲載された「エレクトロニクス技術を変革する量子情報技術」の抜粋です。本記事はオープンアクセスとなっておりますが、通常記事の全文を閲覧するには電子情報通信学会の会員登録が必要です。会員登録に関して詳しくはこちらから(電子情報通信学会の「入会のページ」へのリンク)。全文を閲覧するにはこちらから(電子情報通信学会のホームページ内、当該記事へのリンク)。『電子情報通信学会誌』の最新号はこちら(最新号目次へのリンク)。電子情報通信学会の検索システムはこちら(「I-Scover」へのリンク)。

1.はじめに

 超伝導もレーザも量子力学でなければ説明できないという意味では量子技術である。しかし、量子力学を使うことによって、情報処理や通信や計測において古典力学よりも本質的に優れた性能を発揮し得るものを、ここでは量子情報技術と呼び、そのうち、量子コンピュータの現状と将来展望について述べる。本特集の趣旨と、量子情報技術がまだほとんど世に出ていない研究途上の分野であることから、本稿で述べる将来展望は、筆者らの見解であって、必ずしも分野のコンセンサスとは限らないことをお断りしておく。

2.量子情報処理の現状と将来展望

2.1 量子コンピュータの歴史

 まず、量子コンピュータの歴史を簡単に述べる。1982年にファインマンが、量子物理系を古典コンピュータでシミュレートすると計算量が爆発する困難を指摘し、それを解決できる万能量子シミュレータとして量子コンピュータの概念に触れた(1)。ドイチェが、1985年に計算の量子力学的モデルを示し、万能量子コンピュータを万能チューリングマシンの量子版である量子チューリングマシンとして表し(2)、1989年に論理ゲートと論理回路の量子版である量子ゲートと量子回路を導入して表した(3)。彼は1992年に、量子コンピュータで古典コンピュータよりも速く解ける問題とアルゴリズムを例示した(4)。1993 年には、バーンスタインとヴァジラニが量子チューリングマシンの計算量(5)、ヤオが量子回路の計算量を研究し(6)、量子計算量理論の端緒が開かれた。

 1994年には、ショアが桁数nの整数の素因数分解をO(n3)以下の手間で効率的に解く量子アルゴリズムを考案した(7)が、素因数分解は知られている最良のアルゴリズムである一般数体ふるい法でもnの準指数の手間がかかり、その素因数分解の困難性がRSA公開鍵暗号の安全性の根拠であったので、大きな衝撃を与えた。これを契機として量子コンピュータが広く知られるようになり、その実現を目指した研究が様々な物理系で行われるようになった。1996年にはグローヴァーが、ソートされていないN個のデータから一つのデータを検索するのに、古典的にはO(N) 回掛かるのをO() 回で済む量子アルゴリズムを考案した(8)

2.2 量子回路モデル

 量子コンピュータを量子回路モデルで簡単に説明する。量子コンピュータでは、コンピュータのビットに相当する量子ビット(qubit)が情報を担い、それに対して量子ゲートを作用させて計算を行う。量子ビットは物理的にはスピン1/2 であり、論理レベルの0と1を表す|0>と|1>の任意の重ね合わせ状態|Ψ>=α|0>+β|1>を取ることができる(α, βC)。

 1 量子ビットの量子ゲートとしては、例えば、古典的なNOTに相当するX ゲート(X=|1><0|+|0><1|) や、Z=|0><0|−|1><1|ゲートなどがある。量子回路で頻繁に現れるアダマールゲートH=(X+Z)/ は、|0>に作用するとH|0>=(|0>+|1>)/ と重ね合わせを作る。これらの演算子は、物理的にはスピンのπ回転を表す。また、2-qubit の代表的な量子ゲートである制御NOT ゲートはCN=|0><0|⊗I+|1><1|⊗X で表され、1-qubit 目が|1>のときのみ2-qubit目をNOTする。