前回に引き続き、ファミリーコンピュータ(ファミコン)発売後の動きを追う。1983年に発売したファミコンの普及台数が、1987年には1200万台近くに達していた。ここまで普及したファミコンに野村証券など証券業界が目を付けた。ファミコンを電話回線につないで、株価など証券情報の提供や株式の売買ができるようにしようという構想だ。任天堂は、ゲームなど多様な展開も可能と踏んで、通信アダプタを開発した。しかし株価の下落が始まると、顧客の株価への関心が薄れ、見向きもされなくなった。通信型ゲームも製品化できなかった。

(記事の原題は、「野村証券と通信アダプタを開発、ゲームは断念~ファミコンはこうして生まれた【最終回】)

野村証券から構想の説明を受ける

 1987年夏、任天堂の開発第二部部長の上村雅之(敬称略、以下同)に、同社社長の山内溥から1本の電話が入った。用件は「ファミコンを使ったネットワークを野村証券と共同開発することを検討せよ」という指示だった。「四国の講演で、社長が野村証券の人と同席した。その場で、ファミコンを使ったネットワークを共同開発しようという話になったようだ」(上村)。

図1 ファミコン用の通信アダプタ 
図1 ファミコン用の通信アダプタ 
ファミコンの上にあるのが通信アダプタ。ゲーム用のカセットと同じ場所に挿入する。ファミコンの左下にあるのがカー卜リッジである。証券用、競馬用などファミコン通信の用途別に、それぞれのカートリッジを用意した。
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 さっそく上村は東京・日本橋にある野村証券の本社まで足を運んだ。会議を聞き、野村証券から構想の説明を受けた。

 野村証券の構想はこうだ。ファミコンを端末にして、電話回線とつなぎ、同社の顧客に株価など証券情報を提供したり、顧客が株式の売買をできるようにしたい。

 このため、必要なホスト・コンピュータのプログラムは野村証券が開発する。このなかには、ユーザに提供するデータベースの開発も含む。任天堂には、ファミコンを電話回線に接続するための通信アダプタの開発が要請された(図1)。

懸案だった通信アダプタ

 実は、ファミコン用通信アダプタの開発は、任天堂の開発第二部内でもたびたび検討課題になっていた。しかし、コンピュータ・ゲームは相手がいなくても遊 べることが利点であり、ネットワークを使う必要はないという否定的な結論しか出なかった。「結局、面白いゲームを作る自信がなかった」(上村)こともあ り、いつも話は流れていた。

 今回はデータベースの開発を野村証券が担当するという提案である。任天堂は、通信アダプタというハードウエアの開発に専念すればよい。いったんア ダプタを開発すれば、そのあとでゲームなどさまざまなかたちの展開も期待できる。「ちょうど、よいチャンスではないか」(上村)と考え、共同開発を受ける ことを決めた。

 証券会社がファミコン・ネットワーク事業への参入を決めると、銀行からも任天堂に声がかかった。

 のちに、日本競馬協会(JRA)も声をかけてきた。馬券の在宅投票システムにファミコンを使いたいという提案である。JRAが認定した在宅投票会員のみが利用できる。JRAの方から声がかかり、1991年からサービスを始めた。

 続々と登場するファミコン・ネットワーク・サービスの発端となった野村証券との共同開発が1987年夏に始まった。