前回はファミリーコンピュータ(ファミコン)発売に至る経緯を解説した。今回はその後のいきさつをたどる。ファミコンの発売後、任天堂のハードウエア技術者には次なるテーマが待ち受けていた。周辺機器の「ディスクシステム」の開発である。ソフト供給媒体をマスクROMカートリッジからフロッピー・ディスクに置き換えるための同社の戦略商品だった。新開発の音源チップを搭載し、違法コピーへの対策などを施したうえで1985年11月の発売にこぎ着ける。ただし、マスクROMの大容量化についていけず、ディスクシステムは約3年で主役の座をマスクROMに再び譲り渡すことになる。

(記事の原題は、「ディスクシステム,ROMの大容量化に押され短命に~ファミコンはこうして生まれた【第9回】)

ICカード構想が発端

 任天堂は、1985年11月にファミコン用周辺機器の「ディスクシステム」を1万5000円で発売した(図1)。ソフト供給媒体をマスクROMから安価なフロッピー・ディスクへ移行させることをねらった。

図1 本体の下に設置
図1 本体の下に設置
ファミリーコンピュータ用周辺機器「ディスクシステム」の外観。本体の下に駆動装置を設置し,アダプタをカートリッジ用コネクタに接続して使う。
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 ディスクシステムの発売当初は、ソフトの供給をディスク一本に絞っていく考えだった。ところがディスクシステムは主流に成り切れずに姿を消すことにな る。登場から3年あまりで主役の座を再びマスクROMカートリッジに奪われてしまった。半導体技術の進歩で、ディスクの記録容量を超えるマスクROMが手ごろな価格で手に入るようになったからである。

 その後、スーパーファミコンを経て1995年末に発売予定の64ビット・ゲーム機にいたるまで、同社はマスクROMカートリッジをソフト供給媒体の中核と位置づけている。

 ディスクシステム開発のきっかけとなったのは、ソフト・メーカのハドソンが任天堂に持ち込んだICカード構想である。ファミコンを発売して約2年が経過し、300万台以上を出荷したころ、任天堂は一つの壁にぶつかっていた。5000円もするマスクROMのソフトを今後も5本、10本と子供が買ってくれるのか。パズルのような手軽なソフトを安価に供給しなければネタ切れになってそっぽを向かれるのではないか。こうした強迫観念が頭をかすめたという。

 ハドソンがICカード構想を売り込んできたのはちょうどそのころである。RAMを搭載したICカードでゲーム・ソフトを供給する。ICカード・ライタを販売店に設置してソフトの内容をユーザが書き換えられるようにする。こうすればマスクROMの納期に左右されずにソフトを販売できる。しかも、ユー ザは書き換え料だけを支払えば新しいソフトで遊べる。ハドソンはこう説明した。