前回触れたように、業務用ゲーム機「ドンキーコング」の回路を母体として、ファミリーコンピュータ(ファミコン)の開発が始動した。外観デザインなど具体的な製品イメージのないまま、リコーと共同でLSIの開発を始めた。CPUには、リコーがライセンス権をもつ米Rockwell社の8ビット・マイコンの6502を採用した。業務用ゲーム機のソフト開発で Z80に慣れていた開発スタッフには、当初戸惑いがあった。そこへ、6502を知りつくしている新入社員がスタッフに加わり、開発ピッチが加速していった。

(記事の原題は、「業務用機の仕様を家庭用に、LSIの開発から着手~ファミコンはこうして生まれた【第7回】)

Coleco社の製品に刺激された

 業務用ゲーム機の「ドンキーコング」の技術を基に家庭用テレビ・ゲーム機を開発する――。

 上村雅之(敬称略、以下同)が率いる任天堂 製造本部 開発第二部がファミリーコンピュータ(ファミコン)の開発に着手したのは1982年6月である。開発コード名はガメコム(GAMECOM)だった。

 ファミコン開発に当たって、任天堂が強く意識した製品がある。それは米Coleco社の「Coleco Vision」である(図1)。Coleco社は蛍光表示管を使った携帯型ゲーム機などを手がけていた玩具メーカ。当時、米国では米Atari社の 「Atari2600」がヒットしていた(図2)。これに対抗してColeco社が開発したのが「Coleco Vision」だった。

図1 ファミコンのひな形となった家庭用ゲーム機
図1 ファミコンのひな形となった家庭用ゲーム機
米Coleco社が1982年に発売した「Coleco Vision」の外観。
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図2 米国で大ヒット商品になった家庭用ゲーム機
図2 米国で大ヒット商品になった家庭用ゲーム機
米Atari社の「Atari2600」。
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 任天堂がファミコンの開発を始める直前に、Coleco社の人間がColeco Visionの試作機を持って任天堂を訪れている。滑らかに動く映像を初めて見たときには、開発第二部の全員がびっくりしたという。

 開発スタッフの一人でソフト開発を担当した沢野貴夫(現、情報開発部情報第一課課長代理)は、Coleco Visionを家に持ち帰って両親に遊ばせてみた。おおはしゃぎするほど反応はよかったという。

 沢野は1972年に任天堂に入社し、開発第二部で上村とともに専用LSIを使ったゲーム機の開発に携わった。その後、ゲーム&ウォッチの開発で忙しくなった開発第一部に駆り出されていたが、ファミコン開発プロジェクトのために上村のもとに戻ってきた。

 沢野がプロジェクトに参加したことは、ファミコンの仕様に重大な影響を与えることになる。コントローラに十字ボタンを付けることを提案したのは沢野だった。

 ファミコンはAtari社のAtari2600がモデルになったとよくいわれる。確かにAtari社の成功がなければ、家庭用ゲーム機の開発に踏み切れなかったかもしれない。ただし、技術的な刺激を受け、一種のイメージ商品と考えていたのはColeco Visionだったと上村は言う。