ほぼ40年前の話である。登場する技術キーワードや企業の名前だけを見れば、今やほとんど伝説の時代の話に感じるかもしれない。

 だが、任天堂が1983年に世に送りだした家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」によるイノベーションには時代を超えた普遍性がある。ハードウエアとソフトウエアの両輪で回す現在のゲームビジネスの原型をつくり上げた技術者たち。家庭用ゲーム機、携帯型ゲーム機、スマホゲーム、AR/VRと連なるゲーム産業のアイデアは既にこの時代に存在した。

 産業の礎を築き上げる一連の流れの中で技術者がどんな思いを持って、どんな狙いで多くの技術候補の中から最適解を選択したか。何に苦心し、周辺の企業とどのように協力したか。何より発想の原点はどこにあったのか。物語の中からそれらを抽出することは、新しい市場を立ち上げ、新たなイノベーションを創出する大きな気づきにつながる、現代にあっても色あせることのない優れたケーススタディーだ。

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 任天堂の技術者がどのような考え方で家庭用テレビ・ゲーム機を開発してきたか。1983年の「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」発売に至る開発ストーリを連載する。第1回は、テレビ・ゲームが米国で産声を上げた1960年代からマイクロプロセサを搭載したゲーム機が登場した1970年代半ばまでを追う。1975年末ころ、米General Instrument(GI)社がテレビ・ゲーム専用LSIの外販を始め、米国では年間300万台の市場が生まれた。

(※記事の原題は「テレビ・ゲーム黎明期からマイコン搭載機登場まで~ファミコンはこうして生まれた【第1回】」)

どのような考え方で製品化し、成功に導いたのか

 RISCチップを搭載し、3次元グラフィックス機能を強化した次世代テレビ・ゲーム機の開発に拍車がかかっている。松下電器産業やソニーといった大手家電メーカの参入が相次ぎ、第2の任天堂を目指す競争が激化してきた。こうした流れの根底には、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」のような成功を収めたいという参入メーカの願望があろう。

 では、1983年に任天堂はどのような考え方でファミコンを製品化し、成功に導いたのか。

 任天堂がこれまで蓄積してきたハードウエア開発に対する考え方は、家庭用マルチメディアの将来像を模索するうえで一つの指針になろう。そこで本誌は任天堂のハードウエア技術者がどのような考え方でテレビ・ゲーム機を開発してきたかを数回に分けて連載することにした。

 第1回に当たる今回は、テレビ・ゲーム機の黎明期から米国で市場が立ち上がった1970年代半ばまでを取り上げる(図1)。この時期、任天堂はまだテレビ・ゲーム機業界に顔を出さない。「ただし、テレビ・ゲーム機の基本的な考え方は1970年代半ばには出そろっていた。ファミコンも大きな影響を受けている」(ファミコンの生みの親である上村雅之氏、任天堂 製造本部 開発第二部部長)。

図1 テレビ・ゲームの概念が生まれてから20年後にファミコンが登場
図1 テレビ・ゲームの概念が生まれてから20年後にファミコンが登場
1962年に米MIT(Massachusetts Institute of Technology)の学生だったSteve Russel氏が科学計算用のミニコンで「Space War」というゲーム・プログラムを開発したことがテレビ・ゲームの始まりといわれている。それから約20年を経た1983年に、任天堂がファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売した。
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