2015年に起こった五輪エンブレム問題は、デザインへの信頼性を低下させてしまった。しかし本来、デザインとは人々の生活を豊かにするものである。そうした考えのもと、1964年東京オリンピックエンブレムなどを制作したのが、希代の表現者・亀倉雄策だ。その亀倉の評伝『朱の記憶 亀倉雄策伝』(日経BP社)は、クリエイティブディレクターの馬場マコト氏が執筆し、グラフィックデザイナーの奥村靫正氏によるアートディレクションで世に出された。その二人の対談(2016年3月24日、東京・青山ブックセンター本店にて開催)で語られた、五輪エンブレム問題の本質、そしてデザインの将来について、2回に渡ってお伝えする。

日本ではビジュアル・アイデンティティーに対する価値が低下した?

馬場 奥村さんは20代の頃からグラフィック界で活動し、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のトータルディレクションを手掛けるなど、活躍されてきました。僕の著作の装丁はすべて奥村さんにデザインしていただいており、その関係で今回のトークショーに参加していただきました。

奥村 僕は亀倉雄策さんのようなたいしたことはしていませんので、このような場所で話すのはミスキャストなんじゃないかなとも思っています。けれど今回、『朱の記憶 亀倉雄策伝』のお仕事をさせていただきましたし、馬場さんには東京オリンピックエンブレムのコンペ参加への協力もいただいたので、いい機会だと思い、お話をさせていただくことになりました。

『朱の記憶 亀倉雄策伝』著者の馬場マコト氏。奥村氏からの要請でコンペ参加の際にデザインコンセプトづくりに協力した。馬場氏は、日本リクルートセンター、マッキャン・エリクソン博報堂、東急エージェンシー制作局長を経て、1999年より広告企画会社主宰。NTT民営化キャンペーン、リクルート「情報は人間を熱くする」企業広告など、各社の企業広告を数多く企画制作
『朱の記憶 亀倉雄策伝』著者の馬場マコト氏。奥村氏からの要請でコンペ参加の際にデザインコンセプトづくりに協力した。馬場氏は、日本リクルートセンター、マッキャン・エリクソン博報堂、東急エージェンシー制作局長を経て、1999年より広告企画会社主宰。NTT民営化キャンペーン、リクルート「情報は人間を熱くする」企業広告など、各社の企業広告を数多く企画制作
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馬場 さて、そのオリンピックエンブレムのお話について。

 2015年からのオリンピックエンブレムを取り巻く状況というのは、1970年の大阪万博のときに状況がよく似ていると思っています。今回の著書の中にも書いていますが、大阪万博のときも、公式シンボルマークが一度決まりながらも、それが否決され、もう一度コンペをやり直すということが起きているんです。

 最初に決まった案を見た万博協会の会長であった石坂泰三さんが「こんな貧乏臭いマークは嫌だ」と言ってテーブルをひっくり返したんです(笑)。今回のオリンピックエンブレム問題は、誰かがテーブルをひっくり返したわけではないですし、事情は異なりますけれども。

 大阪万博のコンペは、個人・企業合わせて40ほどの参加者がいました。1964年の東京オリンピックのときは、亀倉さんも含めて6人でコンペをしています。そして昨年問題になったオリンピックエンブレムのコンペでも、100近い人々が参加したと言われています。その中で、「公平じゃない」「オープンじゃない」という批判の声が聞かれました。でも、デザインを決めるとき、公平でオープンでなければいけないんでしょうかね?

奥村 どの時点でオープンにするか、情報開示をどの時点でするかということにもよるかなと思います。ただ、昨年のエンブレム問題は非常に混迷を極めてしまっていて、僕も傍観するしかないと感じていました(苦笑)。

馬場 あの混乱について、大きな問題がいくつかあったと思っています。その一つが受賞者の対価です。コンペに勝った人は100万円をもらえたわけですが、その金額の割にはやらなければいけないことが山ほどありました。

 昨年のコンペは参加資格が非常に厳しいもので*1、その資格を満たせるような人が、たった100万円で1年間ほかの仕事ができないぐらいのことに掛かりっきりにならなければいけない。100万円なら参加しないという人が出ることを危惧して、審査委員長の永井一正さんがデザイナーを指名したということも後々問題になりましたが、「プロが栄誉のためだけにやりますか?」という印象があった。

*1 2015年に問題になったオリンピックエンブレムのコンペでは、東京ADC賞、亀倉雄策賞など、七つの賞のうち、過去に二つ以上を受賞しているデザイナーにのみ参加資格が与えられていた。