日本ではビジュアル・アイデンティティーに対する価値が低下した?
馬場 奥村さんは20代の頃からグラフィック界で活動し、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のトータルディレクションを手掛けるなど、活躍されてきました。僕の著作の装丁はすべて奥村さんにデザインしていただいており、その関係で今回のトークショーに参加していただきました。
奥村 僕は亀倉雄策さんのようなたいしたことはしていませんので、このような場所で話すのはミスキャストなんじゃないかなとも思っています。けれど今回、『朱の記憶 亀倉雄策伝』のお仕事をさせていただきましたし、馬場さんには東京オリンピックエンブレムのコンペ参加への協力もいただいたので、いい機会だと思い、お話をさせていただくことになりました。
馬場 さて、そのオリンピックエンブレムのお話について。
2015年からのオリンピックエンブレムを取り巻く状況というのは、1970年の大阪万博のときに状況がよく似ていると思っています。今回の著書の中にも書いていますが、大阪万博のときも、公式シンボルマークが一度決まりながらも、それが否決され、もう一度コンペをやり直すということが起きているんです。
最初に決まった案を見た万博協会の会長であった石坂泰三さんが「こんな貧乏臭いマークは嫌だ」と言ってテーブルをひっくり返したんです(笑)。今回のオリンピックエンブレム問題は、誰かがテーブルをひっくり返したわけではないですし、事情は異なりますけれども。
大阪万博のコンペは、個人・企業合わせて40ほどの参加者がいました。1964年の東京オリンピックのときは、亀倉さんも含めて6人でコンペをしています。そして昨年問題になったオリンピックエンブレムのコンペでも、100近い人々が参加したと言われています。その中で、「公平じゃない」「オープンじゃない」という批判の声が聞かれました。でも、デザインを決めるとき、公平でオープンでなければいけないんでしょうかね?
奥村 どの時点でオープンにするか、情報開示をどの時点でするかということにもよるかなと思います。ただ、昨年のエンブレム問題は非常に混迷を極めてしまっていて、僕も傍観するしかないと感じていました(苦笑)。
馬場 あの混乱について、大きな問題がいくつかあったと思っています。その一つが受賞者の対価です。コンペに勝った人は100万円をもらえたわけですが、その金額の割にはやらなければいけないことが山ほどありました。
昨年のコンペは参加資格が非常に厳しいもので*1、その資格を満たせるような人が、たった100万円で1年間ほかの仕事ができないぐらいのことに掛かりっきりにならなければいけない。100万円なら参加しないという人が出ることを危惧して、審査委員長の永井一正さんがデザイナーを指名したということも後々問題になりましたが、「プロが栄誉のためだけにやりますか?」という印象があった。