政府は、2016年12月21日、長らく懸案事項だった高速増殖原型炉「もんじゅ」の廃炉を正式決定した。「もんじゅ」は結局、設計通りの定格出力運転を一度も達成せず、廃炉に至った。日本どころか世界的にも歴史的な不祥事である。産業技術者は、二度と同じ過ちを犯してはならない。何が原因なのか、歴史から学ぶことは、あまりにも多くある。

高速増殖原型炉「もんじゅ」の遠景
高速増殖原型炉「もんじゅ」の遠景
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 もんじゅが今回、廃炉に至った大きな原因は、1995年に発生した液体ナトリウム漏洩・火災事故と、その事故処理の過程で発覚した情報隠蔽の不祥事である。さらにその約14年半後、ようやくこぎ着けた試験運転再開の僅か約3カ月後の2010年8月16日に起こした炉内中継装置の落下事故が致命傷になった、とそのように一般には考えられているはずだ。

 その認識は間違ってはいないが、私はもんじゅ廃炉の真の原因は別にあると考えている。ナショナル・プロジェクトの発足からの半世紀もの間に蓄積した矛盾が、長期にわたり、ボディーブローのように効いてプロジェクト自体の体力を消耗させてきた。事故や不祥事は限界点に達した組織を崩壊させる引き金を引いたにすぎない。それを説明する前に、まずもんじゅプロジェクトの前段階から話を始めたい。

異常な早さで世界にキャッチアップした日本の原子力開発

 日本の原子力開発は欧米先進国に10年も遅れスタートした。政府の原子力開発の方針は先端技術へのキャッチアップが最優先課題であった。具体的には日本原子力研究所(原研)の「JRR-1」「JRR-2」「JPDR」「3MeVおよび5MeV静電加速器」「20MeV線型加速器」など、特にアメリカの技術の導入に明け暮れた。先端技術の導入だけではない。原研は研究内容までアメリカの完全な模倣であった。初期の原研においては、研究や技術開発のオリジナリティーは何もなかった。

 それでも原研は設立10年で異常な早さで欧米先進国の動力炉開発のレベルにキャッチアップした。1960年代後半には既に、高速増殖実験炉(後の「常陽」)と新型転換原型炉(後の「ふげん」)の概念設計を完了し、それらをいつでも建設できる技術力を有していた。

もんじゅのあゆみ
もんじゅのあゆみ
(公開資料を元に作成)
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