これまで本質についていろいろ語ってきたが、どうしても見ておくべき哲学上のテーマは、もう1つある。それは、「正しさ」である。今回も、ビジネスについての視野を広げる話のオマケ付き。

王様が裸である「正しさ」と裸ではない「正しさ」

 我々は、「思念」(精神内部の「事物の像」)、すなわち「考え」がその対象である事物に当てはまるとき、その考えが「正しい」という。このときの「正しさ」は「真」である。

 また、我々は、人の役に立つ考えや行為を「正しい」という。このときの「正しさ」は、「価値」である(無論、ここでの「価値」は「プラスの価値」)。

 さらに、しばしば多数派の考えや行為を「正しい」という。このときの「正しさ」は、いわば「多数性」である。権威者の考えや行為を「正しい」ともいう。このときの「正しさ」は、いわば「権威」である。

 ただし、多数派の考えには、それを受け入れることによって集団から疎外されづらくなるなどの「価値」があり、故にそれを「正しい」というと考えられる。権威者の考えには、それに乗ることによって利を得られるなどの「価値」があり、故にそれを「正しい」というと考えられる。ならば、「多数性」も「権威」も「価値」であることになる。

 そして、行為は考えの単なる発露として捨象できる。また、「真」と「価値」以外の「正しさ」はない。

 だから、「正しさ」とは、考えの属性である「真」と「価値」なのである。

 なお、「真」は、考えと精神外部の事物との間に成立し、「価値」は、考えと精神内部の事物との間に発生する。つまり、「真」は、考えが精神にもたらす「外的」な属性であり、「価値」は、精神の「内的」な属性である。

 また、「真」ないしは「価値」である「正しさ」の内、片方を持つ考えがもう片方を持つとは限らない。例えば、「真」である地動説は、「偽」である天動説が「価値」を持つとする世の中にとっては「誤り」となる。裸の王様がおしゃれな衣装を着ているとの「偽」である考えは、世間ずれした大人にとって「価値」という「正しさ」を持つものとなる。