戦後、日本の製造業は品質を重視する経営を推進し、高いグローバル競争力を実現して飛躍してきた。こうした日本の品質関連の取り組みを支えてきたのが「デミング賞」で知られる日本科学技術連盟(以下、日科技連)だ。日科技連では「変化に対応できる、変化を生み出せる組織能力の獲得」をテーマに、「第104回 品質管理シンポジウム」(2017年6月1~3日)を開催する。日経テクノロジーオンラインは、同シンポジウムの開催に先立ち、登壇者のインタビュー記事を連載する。今回は富士ゼロックス 代表取締役会長の山本忠人氏のインタビュー(上)をお届けする。(聞き手は吉田 勝、中山 力)

山本 忠人(やまもと・ただひと)
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山本 忠人(やまもと・ただひと)
1945年生まれ。神奈川県出身。1968年に山梨大学工学部を卒業後、富士ゼロックスに入社。取締役(就任1994年)や常務執行役員(同1996年)、専務執行役員(同2002年)などを経て、2007年に同社としては初となる技術系出身の代表取締役社長に就任。翌2008年に「複写機卒業宣言」をし、ソリューションやサービスの提供にも注力する。2015年より代表取締役会長。
 富士ゼロックスは、米Xerox社よりアメリカ大陸以外での複写機ビジネスを任されていた英Rank Xerox社と富士写真フイルム(当時)が50%ずつ出資し、合弁会社として1962年に設立されました。日本初の普通紙複写機(PPC)を販売するためです。比較的高速に、しかも普通紙でコピーできるということで非常に画期的な商品でした。米Xerox社の商品を日本に持ち込んできてそれを販売したというのがスタートで、その後ノックダウン生産や日本向けのカスタマイズなども手掛けました。

 富士ゼロックスが名実共にメーカーになったのは1971年ですね。そのきっかけになったのは基本特許が切れると言う危機感です。複写機というのはいろいろな技術のすり合わせ商品です。トナーのような化学系の技術から光学技術、精密機械技術などいろいろな複合的な技術を使っています。その特許切れを、カメラなどの精密機器を手掛けていて技術力のある競合の日本メーカーがいまかいまかと待っているわけです。そうなると生産技術を持たない富士ゼロックスは駆逐されかねない。そこで、親会社の2社が定款を変更して、販売だけじゃなくて研究開発や生産も手掛けようとなったわけです。

 当時は販売会社としてもまだ新参でしたから、メーカーへの転身を見越して1968年から技術系社員を採用し始めました。私はその第1期生です。当時は、いろんな企業からの中途採用者がいわゆる開発生産や研究部門に集められていました。新卒なんてなかなかまだ採れない。

 ものを作ったことがないし、販売会社としてできたものをとにかく売るというビジネスでしたからマーケットインも何もない。完全にプロダクトアウトでした。米国製のごつい機械で、コピーを取れる判型も海外式。日本のB4などのBサイズなんてコピーできないわけです。

 そんなところからスタートしたのです。最初は工場もなくて、小田原にあった富士写真フイルムの工場の一角を譲ってもらって始めました。そうこうして海老名(神奈川県海老名市)の工場ができたのが1971年です。その頃から徐々に開発・生産の人員は増えていきました。ただ、いかんせん素人集団でしたから、参考にできるのは米国の図面程度。サプライヤーもほとんどいないというような状態でした。

 そうしてスタートした富士ゼロックスの開発・生産は、オイルショックやプラザ合意といったさまざまな出来事や、アナログからデジタルへ、デジタルからネットワークへのシフトといった流れの中で、日本の右肩上がりの経済とともに発展してきました。現在では、当社で企画・開発・生産した商品が全世界に向けて出荷されています。Xerox社が販売している商品も、ほとんど当社から世界に輸出したものです。おかげさまで今では、富士ゼロックスが販売会社だったというのは世の中の皆さんの記憶にないぐらい、メーカーとして評価されるようになりました。