世界初、原子の土星モデル

 1903年、長岡の下に一つのニュースが飛び込んできた。1897年に電子を発見したイギリスのジョゼフ・トムソン(Joseph John Thomson、1856~1940年)が、原子模型を提案したのである。一様なプラスの媒質の中にスイカの種のようにマイナスの電気を帯びた電子が浮かんでいるという仮説で、彼はこれを「プラム・プディング・モデル」と名付けた。論文を読んだ長岡は「このモデルは間違っている」と直感した。なぜか。

 長岡は考えた。例えば水素原子に高電圧をかけて電子にエネルギーを与えると、ある特定の波長を持つ光が出てくる。この光は原子の中の電子の運動状態が変化することから生ずるのだろう。すると電子は原子の中で運動していなければならない。もしもスイカの中に種のように埋もれていれば運動などできない。だったらプラスの核があって、それから離れてマイナスの電子が運動しているとすると……。

 そこでふと、かつてドイツ留学中に感銘を受けたイギリスのジェームス・マクスウェル(James Maxwell、1831~1879年)による「土星の輪」の論文を思い出した。1857年、ケンブリッジ大学が出した「薄い板のような形をした土星の環が安定したまま壊れないのはなぜか」という懸賞テーマに対し、25歳のマクスウェルは「土星の環が無数の小さい衛星から成っていて土星の周りを運動しているからにすぎない」という結論を導いて賞を獲得した。マクスウェルは「微小でバラバラの衛星が土星の周りを回転するとき、1つの平面上に運動すれば安定を保つ」ということをニュートン力学で証明したのである。長岡は92ページに及ぶその論文を繰り返し読んでいた。

 長岡はここで創発を得る。土星自体をプラスの原子核に、土星の環を構成する微小な衛星をマイナスの電子に置き換えたらどうか。そうすれば電子の回転運動から光が出ることが説明できる。こうして1903年、長岡は東京数学物理学会で「原子は中心にある球の外側を多数の電子が等間隔の同心円状に回転している」という新たな「土星型原子模型」を発表し、論文をイギリスの著名な学術雑誌に掲載した。世界初となる原子の土星モデルの提案。当時の日本は先進国と肩を並べて一級の理論を打ち出していたのである。