最先端の物理学をマスター

 当時の物理学科の主任教授は、会津藩出身の白虎隊の生き残りで、NHK大河ドラマ「八重の桜」にも登場した山川健次郎(1854~1931年)。大学院に進学した長岡は唯一のお雇い外国人教師カーギル・ノット(Cargill Knott、1856~1922年)に師事する。磁気ひずみ(鉄やニッケルが自らの磁性によって変形する現象)の研究で博士論文を書き、1893年、27歳で理学博士を得てドイツのベルリン大学に留学した。

 当時、ベルリン大学には、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz、1821~1894年)やマックス・プランク(Max Planck、1858~1947年)がいた。長岡は有名になる前のプランクの講義に感銘を受ける。

 ちょうどその頃、ドイツではエネルギー論対原子論の激しい論争が沸き起こっていた。原子論の研究をする決意をした長岡は、ミュンヘン大学のルートヴィッヒ・ボルツマン(Ludwig Boltzmann、1844~1906年)の下に移ることにした。ボルツマンの統計力学に関する講義は極めて明瞭で、彼はとことんボルツマンにほれ込んだ。

物理学教室(Sektion Physik)があるミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität)。ボルツマンと長岡が学んだ校舎は、第2次世界大戦の空爆で完全に破壊された。
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ミュンヘン大学の物理学教室(Sektion Physik, Ludwig-Maximilians-Universität)。ボルツマンと長岡が学んだ校舎は、第2次世界大戦の空爆で完全に破壊された。
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物理学教室(Sektion Physik)があるミュンヘン大学(Ludwig-Maximilians-Universität)。ボルツマンと長岡が学んだ校舎は、第2次世界大戦の空爆で完全に破壊された。

 その半年後、ウィーン大学に招かれたボルツマンを追って長岡もウィーンに移るが、ここで長岡はボルツマンの講義がミュンヘンと全く同じことに失望してベルリンに戻っている。これは長岡が統計力学を完璧に理解していたと同時に、当時の最先端の物理学をマスターしていたことを意味している。

 長岡は3年半のドイツ留学中に9編の論文を書いた。その間、1895年にヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Röntgen、1845~1923年)がX線を発見し、96年にフランスのアントワーヌ・ベクレル(Antoine Becquerel、1852~1908年)がウランから放射線が出ていることを見つけるなど、新たな科学上の発見が相次ぐヨーロッパで科学者としての現場感覚を鍛えられた。

 帰国した長岡はいきなり東京帝国大学の応用数学講座の教授となる。研究業績によって大学教授への昇進を決める制度を強く主張し、官僚主義がはびこる日本の学界の体質を改革していった。1896年には三陸沖で地震による津波(明治三陸大津波)が発生し、死者2万7000人という大惨事が発生していた。長岡は港湾のモデルを考え、運動方程式によって津波の高さと水の速度とを示す式を導いた。これが日本における津波研究の出発点となった。