戦後、日本の物理学を世界のリーダーの位置に押し上げたのは、前回取り上げた朝永振一郎(1906~1979年)、日本初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹(1907~1981年)、そして久保亮五(1920~1995年)の3人と言っていいだろう。

 湯川は、「中間子」の存在を予言して「素粒子物理学」の原初をもたらし、朝永は、ポール・ディラック(Paul Dirac、1902~1984年)の創った量子電磁力学が内在する欠陥を「くりこみ理論」で解決して、素粒子物理学の指導原理である「場の量子論」の源流を創り上げた。

 さらに久保は、非平衡統計力学の基礎をなす「線形応答理論」を構築して、「物性物理学」を新しい次元に押し上げた。物性物理学(condensed matter physics)とは、素粒子物理学・宇宙物理学と対峙するもう一つの物理学であって、ぼくたちが手にする半導体や金属などの物質のマクロな性質を原子のミクロな量子状態から解明する物理学である。物質の科学や技術はそこから生まれた。こうして久保の周りに物性物理学者が結集して共鳴場が磨かれ、ついに日本の半導体テクノロジーやその先にあるナノテクノロジーが創り上げられる。それは、 技術イノベーションに大きく寄与し、人間の生存のあり方を大きく変えることになった。

 そこで本連載の最終回として、素粒子物理学の始祖である湯川と物性物理学の礎を築いた久保を取り上げよう。

仁科に選ばれなかった湯川

 東京で生まれた湯川は、地質調査所(現・産業技術総合研究所地質調査総合センター)に勤務する地質学者だった父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴って、1歳の時に京都市に転居した。幼少時より漢籍に親しむなど無口で内向的な少年時代を送った。高校時代、量子論の勃興によって根本的な変革を遂げつつあった物理学に魅了され、1926年に京都帝国大学理学部物理学科に入学、1929年に同物理学科を卒業して同大の無給副手に就いた。1932年に同大講師に就任、私生活では湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓になった。

 前回述べたように、同年、朝永は理研に入る。一方、湯川は翌年大阪大学講師を兼任するようになる。このいきさつを2人の弟子であった中村誠太郎は、次のように記述している。

 まず朝永先生は、仁科芳雄博士の目に留まって東京の理化学研究所へ研究室を移すことになる。その後、湯川先生は、大阪大学の菊池正士博士のところの講師として就職した。しかし湯川先生はその後、四年たっても論文を書こうともしないので、当時の八木理学部長は「朝永君を採っておけばよかった」と聞こえよがしに小言をいったという。またずっとあとのことだが、仁科芳雄博士は湯川先生のノーベル賞受賞のニュースを聞いて「湯川君を採っておけばよかった」と朝永先生に聞こえるように嫌味を言ったという。こうしたことは、いやが上にもお二人の対抗意識を駆り立てたことと思われる。
(中村誠太郎、『湯川秀樹と朝永振一郎』、読売新聞社、pp.45-46)

君は、新粒子が好きなのか?

 1932年、物質を構成する最小単位である素粒子として、それまでに見いだされていた電子、陽子、光子の他に、中性子がイギリスのジェームズ・チャドウィック(James Chadwick、1891~1974年)によって発見された。これにより、水素を除いて原子核は原子番号と同じ数の陽子とそれ以上の数の中性子からできていることが判明する。では、プラス同士で反発するはずの陽子はなぜバラバラにならないのか? 原子核を結び付けている力(核力)の源は何なのか?

 1933年、この難問に対して湯川は、陽子と中性子の間には電子の約200倍の質量を持つ未知の新粒子「中間子」が存在し、それを両者がキャッチボールすることで結び付いているという仮説を打ち出して、1935年「素粒子の相互作用について」と題する英語論文を発表した。

 力の源を新たな素粒子に求めるこの大胆な仮説は、しかしすこぶる評判が悪かった。例えば、電気的にプラスの物質とマイナスの物質が引き合うのは電磁気力が働くからで、この電磁気力をもたらしているのが光子である。だから新しい力が発見されるたびにそこに新素粒子をあてがえばよいことになる。1937年にニールス・ボーアが来日したとき、中間子論を説く湯川にボーアは「君は、新粒子が好きなのか」と苦々しく言ったという。また、同じ頃に中間子論を思い付いたエルンスト・シュテュッケルベルク(Ernst Stückelberg、1905~1984年)という学生に対してヴォルフガング・パウリは「自分勝手に新粒子を仮定するべきでない」と、論文を却下したという。湯川自身の言葉が残っている。

 シュトゥッケルベルクという理論物理学者がある。時々おもしろいアイディアを出す、すぐれた人であるが、論文は難解で、人柄も大分変わっている。彼はジュネーブ大学の教授をしているが、前述の昨年(1967年:筆者注)七月の国際会議のときに初めてあった。私が
「あなたには、もっと早くお目にかかっておるべきはずだった」
というと、
「もしもパウリが私をやっつけなかったら、私もあなたと同じ頃に、中間子論を提唱していたはずだ」
と答えた。
(湯川秀樹、『創造の世界:湯川秀樹自選集4』、朝日新聞社、pp.420-421)

 ところがその1937年にアメリカのカール・アンダーソン(Carl Anderson、1905~1991年)らによって、湯川が予言した中間子とよく似た素粒子が宇宙線から発見され、にわかに注目されるようになる。湯川は世界的な物理学者が集うソルベー会議に招かれて(戦争のため会議は中止)、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになり、太平洋戦争下の1943年、史上最年少(36歳)で文化勲章を受章した。

 ただし、ミュー中間子と名付けられたこの新素粒子は、結局のところ湯川粒子ではなかった。1947年、ついにイギリスのセシル・パウエル(Cecil Powell、1903~1969年)らが宇宙線の中から湯川粒子に他ならぬパイ中間子を発見したことで、湯川は1949年にノーベル物理学賞を受賞。世界的に知られていた長岡半太郎と仁科芳雄の推薦があったからこその快挙である。日本人初のノーベル賞受賞に、敗戦に打ちひしがれていた日本国中が沸き返った。

 朝永振一郎は、湯川がこの着想を自分に語ったときのことを覚えている。1933年、東北大学で物理学会があったとき、湯川は運動場の地面に木切れで式を書きながら「強い力の説明はできたが、けったいな粒子が出てくるわ」と話した。その「けったいな粒子」が発見されたのは、それから14年ほど経ってからだった。