1917年に誕生した戦前の理化学研究所(理研)は、日本初の本格的な科学研究を行なう場だっただけではなく、「中央研究所モデル」という20世紀イノベーション・モデルの世界的先駆けとなった。その生みの親が第3代所長の大河内正敏であったことは前回述べた。
彼は「科学主義工業」のビジョンに基づき、理研を2つの部門に分けた。純粋科学を研究する「財団法人理化学研究所」と、そこから生まれた「知」を新製品につなぐ開発部門、いわゆる「理研コンツェルン」である。理研コンツェルンが生み出す収益は研究部門に注がれたため、科学者たちは「知的好奇心を満たす」ためだけに自由で自発的な研究に専念できた。
その「科学者の楽園」に天啓のように現れたのが、仁科芳雄(1890~1951年)である。日本の物理学の礎を築いたのが長岡半太郎とするならば、仁科はそこに開花した最初の逸材だった。こうして物理学大国としての日本の源流が誕生した。
師の傍らに眠る弟子
仁科の墓は東京都府中市の多磨霊園にある。大正時代に、ドイツの森林墓地をモデルにつくられた日本初の公園墓地は広大な樹林に囲まれていて、まるでゲッティンゲンやミュンヘンの森林墓地を彷徨っているかのようだ。その中の北西エリアの22区1種38側5番に、仁科の墓があった。墓石には、端正な文字で「仁科芳雄墓」と俗名が記され、その左側面にはこれを記した吉田茂の名が彫られている。先祖代々を祀るのが通常の日本の墓のなかで、たった1人を祀った墓は珍しい。ひときわ風格のあるこの墓の右には灯篭が立ち、その後ろにこぢんまりした墓らしきものが立っている。
何だろう。そう思って近寄ってみると、そこには何と「朝永振一郎 師とともに眠る」と刻まれている。筆を執ったのは、理研でやはり仁科を師として研究を共にし、日本医師会会長を長く務めた武見太郎である。墓石の裏には没年月日とともに、ノーベル物理学賞と文化勲章を受けた年月日が刻まれていた。
朝永振一郎(1906~1979年)は、師の傍らに眠っているのだ。ノーベル物理学賞を受賞した朝永にとって、仁科とはかくも偉大な存在だったのだ。
しかしそう思ったあとに、妙な違和感が私を襲った。その墓のあまりのひそやかさである。お墓オタクたちの様々なWebサイトにも、確かに朝永の墓は仁科の墓地と同じ敷地にあると書いてあるものの、脇役すぎる。
きっとこれは分骨にちがいない。本当の墓はどこか別にあるにちがいない。私はそう直感した。こうして朝永の本当の墓を探すことにした。本編の最後に、その顛末を記すので読者はあとの楽しみに待っていてほしい。まずは「仁科とは何者なのか」、そして「朝永はなぜ仁科を終生の師と仰いだのか」から、物語を始めよう。