打ち上げから約1年、2015年12月3日、小惑星探査機「はやぶさ2」が地球スイングバイを実施した。地球とほぼ併走する軌道に打ち上げられたはやぶさ2は、この1年の間のイオンエンジン運転で、徐々に地球との間に軌道のずれを作り出してきた。地球スイングバイにより、このずれを探査機速度に変換し、目的地の「1999 JU3」、現在は「RYUGU」(りゅうぐう:竜宮)と命名された小惑星へと向かう。

 1年の間に、地上の運営チームにも大きな変化があった。2015年4月に、探査機開発を引っ張ってきた國中均教授から後輩の津田雄一准教授に、プロジェクト・マネージャーが引き継がれたのだ。津田プロマネに、はやぶさ2のこと、さらにこれからの日本の太陽系探査についてお聞きした。

津田雄一・はやぶさ2プロジェクト・マネージャー
津田雄一・はやぶさ2プロジェクト・マネージャー
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はじまりはキューブサット

――打ち上げ後、はやぶさ2プロジェクト・マネージャーを引き継ぎましたが、確か最初にお会いしたのは、東京大学・中須賀真一教授の研究室でしたよね。2002年でしたか、中須賀研究室で超小型衛星「XI」を作っていて、中須賀先生から津田さんを「学生プロマネです」と紹介された記憶があります。その後、XIの成功から始まった中須賀研究室の衛星開発は大きく発展し、優秀な宇宙関連人材を次々に輩出するようになりました。

津田 そうでしたね。1998年、私が中須賀研の修士1年の時、ハワイで開催された学会で、スタンフォード大学のトゥイッグス教授が「学生の手で一辺10cmの立方体形状の超小型衛星を作ろう」という提案をしたのが、私にとっての転機でした。

――中須賀先生がそのアイデアに本気で乗って、それでXIと東京工業大学の「Cute-I」の開発が始まったのでした。共に大成功のプロジェクトで、2003年の打ち上げ成功後、日本だけではなく世界中で、大学の理工学教育の一環として超小型衛星を打ち上げて運用することが当たり前に行われるようになりました。

津田 ちょうどお会いした時、私は博士課程の3年生だったんです。自分の将来を決めなければならない状態でした。翌2003年3月に博士課程を卒業して、当時まだ文部科学省・宇宙科学研究所だったこの相模原キャンパスに、軌道工学部門の助手として就職しました。川口淳一郎先生の研究室です。就職して半年後に宇宙三機関統合があって、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足しました。
 余談ですけれど、結局XIの打ち上げは卒業後の2003年6月になってしまいました。本当は打ち上げでロシアに行きたかったのですけれど希望はかないませんでしたね。。打ち上げ当日は中須賀研究室に来て、最初のビーコン受信に立ち会いました。