浮き世(うきよ)と言う。この世のこと、現実生活や人生という意味だ。元々は憂き世と書いて、辛い(つらい)ことが多く、この世は無常(永遠不変のものはなく人生ははかないこと)であるということだ。

 確かにそうだ。楽しい時もあるが、どちらかと言えばこの世は辛いことの方が多いように思う。たまに、憂き世離れをしたくなるし、浮世とも書くのは、あえて浮かれて暮らそうというあきらめ感があるのかもしれない。

 私たちはいつもこの憂き世に居て、常に、憂きことが降りかかってくる。次から次に、まるでコンピューターにプログラムされているように、憂きことが襲ってくるのである。

 もちろん、私にも憂きことは降り掛かってくるのであるが、たまに、クライアントのご担当に理不尽とも言える非情な憂きことが襲い掛かるのを見ると、何とも言えない無常観に包まれることがある。

 私は仏様ではないので、この無常観を受け入れることは出来ずにただ憤慨するだけ。何もできずに、自らの非力を恥じるばかりである。

 つい先日も、ご担当の落胆ぶりを見るにつけ、何という理不尽なことがあるものかと、憂き世の現実を見せ付けられた。

 それまで詳しい説明をしていないトップに企画会議で報告したところ、その場でプロジェクトの白紙撤回を言い渡したというのである。

 ご担当は文字通りの茫然自失。続けて襲う脱力感。一体、これまで時間と知恵と体力をかけて企画したこのプロジェクトは何だったのか。それを、詳しい説明も聞かずに白紙撤回とは何事か。どれだけ辛かったろうか、私には想像すらできない。

 いくら最高経営責任者と言えども、結果として担当者のプライドを踏みにじり、いや、担当者ばかりかその場にいたすべての人を落胆させたのである。