燃料電池自動車「MIRAI」

 ご存じの方も多いように思いますが、高峰の業績を紹介します。

 高峰(1854-1922)は、消化剤タカヂアスターゼや止血剤アドレナリンを生み出した化学者です。1886年に日本の特許商標制度を確立し、発明品の特許収入を資金として米国で酵素事業や研究開発事業を推進し、1913年に在米のまま三共(現、第一三共)の初代社長に就任し、翌1914年に世界初の酵素メーカーであるタカミネ・ラボラトリーを設立。米ニューヨーク郊外のWoodlawn墓園にある高峰の墓には「近代バイオテクノロジーの父」などと案内書に記載があります。

 滝さんは、このWoodlawn墓園から車で2時間半ほどの山あいにある松楓殿に保存されている高峰ゆかりの資料を、彼の出身地である富山県高岡市に保管すべく、高岡市に働き掛けをしていることも講演で話しました。

 松楓殿は、1904年のセントルイス万博の日本館を高峰が引き受け、日米親善の社交場とした建物です。その後、複数の所有者を経て、ニューヨーク在住の滝さんに紹介があり、滝さんは日本人として後世に残したいという思いで購入して修復し、滝さんは高峰の偉業を伝えていくために1908年4月に高峰譲吉博士研究会を立ち上げました。

 同研究会の理事長は、京都大学農学部農芸化学科出身で三共(現、第一三共)の取締役を務めた石田三雄さんが務めています。石田さんの著書『ホルモンハンター アドレナリンの発見』は2012年に京都大学学術出版会から発行されました。この全文英訳版も同出版会から電子出版されます。

 同研究会は、この石田さんの著書に記載された史実を基にした書籍『科学実業家 高峰譲吉博士物語-科学伝記マンガ-』を2015年に発行しました。酵素応用シンポジウムでは、この書籍が参加者に配られました。この記事の末尾に、同研究会がまとめた「高峰譲吉博士の略歴」から抜粋した高峰の業績を掲載します。

 酵素応用シンポジウムでは、滝さんの特別講演の前に、企画講演として、トヨタ自動車MS製品企画ZFチーフエンジニア(CE)の田中さんが「燃料電池自動車『MIRAI』の開発及び水素社会実現に向けたチャレンジ」と題した講演を行いました。

 田中さんは、MIRAIをトヨタが事業化した戦略と戦術を解説しました。トヨタは水素をエネルギー源とする燃料電池車の開発を1992年に開始し、2014年12月にMIRAIを発売しました。当初は3年待ちだったけれども、現在は「工場出荷目途は1~2カ月」とウェブサイトに記載があります。酵素応用シンポジウムの会場には、MIRAIの実車両が展示されました。

 MIRAIなどの燃料電池車が、水素をエネルギー源としていることは知っていましたが、内燃機関のエンジンがない、ということを今回初めて認識しました。水素を酸素と反応させて水にするときに発生するエネルギーを利用しているのですが、水素を燃焼しているのではなく、触媒で水に変えているため、燃焼ではなく、内部で燃焼させるエンジンも必要ないのでした。今回の講演で、やっと認識しました。

 田中さんは、5680件の特許実施権を2020年末まで無償にしていること、2020年の東京オリンピック/パラリンピックでは100台の燃料電池バスが東京を走る計画などを紹介しました。燃料電池バスは1台1億円と、価格が通常のバスの2倍ですが、東京都は5000万円を上限とする助成を行うと6月8日に発表しましたね。

 MIRAIなどの燃料電池車は、運転中には二酸化炭素を発生しない環境に優しい自動車です。水素ステーションの整備も進んでいるので、購入を検討されている方も多いと思います。価格は725万円程度です。

 滝さんは講演の中で、高峰がニューヨークで面談したトヨタの創業者である豊田佐吉に、ヘンリー・フォードが取り組んでいる自動車(1903年に米Ford Motor社を創業)について話したというエピソードも紹介しました。

 高峰譲吉と、日本を代表する企業であるトヨタ自動車との意外な関係を、話題として提供しました。

高峰譲吉の略歴(抜粋)

1854年11月3日 現在の富山県高岡市に生まれる。
1879年 工部大学(現、東京大学工学部)の応用化学科を主席で卒業し、翌年英国に留学
1883年 帰国後直ちに農商務省に入省
1884年 米ニューオリンズ万博に事務官として派遣され1年間滞在
1886年 特許局次長兼任として高橋是清長官を助けて特許商標制度を確立
1887年 澁澤栄一、益田孝らと協力して日本発の科学肥料会社である東京人造肥料(現、日産化学工業)を設立。麹による酒精製造法の特許が87年に英国で、89年に米国で成立
1894年 タカジアスターゼ関連の一連の特許が成立
1895年 米Parke-Davis社(現、米Pfizer社の一部門)を通じて事業化、酵素事業の祖となる
1899年 三共商店(後の三共)が設立され、日本でタカジアスターゼ発売。工学博士号を取得
1900年 アドレナリンの結晶化に成功
1905年 米セントルイス万博の日本館だった鳳凰殿を閉園後に買い取り、移築建設して松楓殿と命名、日米親善に活用
1906年 薬学博士の学位を取得
1901年 豊田式自動織機の事業化で挫折した豊田佐吉を叱咤激励
1912年 ワシントン市などへの日本の桜の寄贈に多大の尽力
1913年 在米のまま三共(現、第一三共)の初代社長に就任。国民的化学研究所(現在の理化学研究所)の構想を発表
1914年 世界初の酵素メーカーであるタカミネ・ラボラトリーを設立
1917年 理化学研究所が創設される
1919年 北陸地方にアルミニウム産業を興すことを提唱。黒部川の電源開発に着手
1922年7月22日 67歳で逝去