2号連続で人工知能(AI)の記事を担当しました。日経エレクトロニクス6月号の特集「人工知能、超人間へのロードマップ」、7月号の解説「白熱する日本のAI研究、狙いは深層学習の凌駕」、同号の論文「ノーベル賞級の発見をするAI、人の限界を超えた科学研究へ」です。実はこれらは一つの記事にまとめるはずでした。ところが、次々に現れた話題があまりにも豊富すぎたため、2号に分割して掲載する形になった次第です。その間に、予想もしなかったソニーのAI研究再起動のニュースも飛び込んできました(ソニーが自律成長するAI、米ベンチャーと共同開発へ)。

 これらの記事に一貫した主題は、「今は人にしかできないと思われている能力を人工知能が身につけ、さらには超えていくことができるのか」。取材を通して筆者が達した結論はイエスです。「超人間」とまで書いたように、今は人にしかできない多くの仕事は、次第に機械にも可能になっていくと考えています。2030年にもなれば、機械は人と区別がつかない対話ができるばかりか、長期の行動計画を立てたり、互いに連携して多様な作業をこなしたりできそうです。システム・バイオロジー研究機構の代表を務める北野宏明氏は、人類最高の知性の証といえるノーベル賞すら獲得できるAIを、2050年までに開発する構想を上記の論文で語っています。

 では、その先にはどんな社会が訪れるのでしょうか。それを考える上で避けては通れないのが、「シンギュラリティ」という言葉です。発明家・起業家であり米Google社のDirector of Engineeringも務めるRay Kurzweil氏が広めた概念で、技術的特異点などと訳されます。一般的には、コンピューターが人の知性を上回ると起こる出来事と解釈する場合が多いようです(Wikipedia)。同氏の著書1)には、「テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来のこと」で、「特異点に到達すれば、われわれの生物的な身体と脳が抱える限界を超えることが可能になり、運命を超えた力を手にすることになる」とあります。そして、その時は「二〇四五年に到来する」とも。

 今回の記事では、この言葉にあえて触れませんでした。この言葉が描き出す世界観が、どうも腑に落ちなかったからです。まず、2045年という時期を算定するにあたって、人間の知性を一つの数字で見積もることに違和感があります。同氏はコンピューターの演算能力の伸びから、人の脳を大幅に上回る処理能力を実現できる(「一年間に創出される知能(合計で約10の12乗ドルのコストで)は、今日の人間の全ての知能よりも約一〇億倍も強力になる」1))時期が、特異点に当たると主張しています。この数字が本当だとしたら恐るべきことですが、そもそも知性は一つの軸では測れないのではと筆者は考えています。だとすれば、機械が一つの側面でいかに秀でたとしても、他の要素では劣ることもあるのではないのか注1)

注1)カーツワイル氏が主張する要の概念の1つである、人間の脳の内容を丸ごとコンピューターにアップロードできる技術が実用になると、以下の議論の一部は成立しないかもしれません。ただし、この技術がそうやすやすと実現するとは個人的には思えません。

 拠り所はあくまでも自分の体験です。筆者は基本的に、記事を書いたり編集したりといった仕事しかしたことがありません。その中で感じるのは、それぞれの記者が書く記事には独特の味があり、どれがいい、悪いとは一概に決められないことです。読者の意見を仰ごうにも、一人一人の関心によって記事の良し悪しは変わってきます。つまり記者の仕事が知性の賜物と言えるなら、その優劣を一つの軸で測ることは極めて難しいわけです。雑誌稼業に限らず、どのような業務に携わる方でも、思い当たる節はあるのではないでしょうか。