前々回、前々回に続き、国際電気通信基礎技術研究所(ATR) 佐藤匠徳特別研究所 特別研究所長の佐藤匠徳氏を紹介する。コラム筆者の加藤幹之氏との対談は、佐藤氏の中学・高校時代から大学卒業後に渡った米国での研究生活へと進んでいく。なぜ、米国に渡ったのか。研究者としての成功は、何をもたらしたのか。米国時代の佐藤氏の足跡をたどる。
加藤氏(左)と佐藤氏(写真:加藤 康)
加藤氏(左)と佐藤氏(写真:加藤 康)

ずっと日系2世の研究者だと思われて…

加藤 研究者になりたいという思いは、中学・高校でも変わらなかったんですね。やはり、科学部とかだったんですか。

佐藤 中学・高校は広島学院という学校で、背も高かったのでバスケットボールをやっていました。インターハイにも出場して、バスケ一筋でしたね。

 大学を選ぶ際に米国の大学も考えたのですが、向こうの研究者に相談したら学部では外国人に奨学金はあまり出ないと。親からは「米国に行ってもいいけど、旅費や授業料、生活費は自分で」と言われていたので、やめておこうと思いました。

 筑波大学に入って1年生の頃から大学院は米国と決めていたこともあり、2年生の時から研究したいテーマも出てきたので研究室に入れてもらいました。たまたま米国から帰国したばかりの先生にお願いして。「アルバイトとしてやったら」と言われたので、少しお金をもらいながら3年間研究して、ファーストオーサーで論文も2本出しました。

 最初の論文を出す時に、自分の「ナルトク」という名前では発音してもらえないと思ったので、「Thomas N. Sato」という名前にしたんです。米国に行ってからも、この名前で論文を出していたので、日本の人たちからは日系2世の研究者だとずーっと思われていて(笑)。僕の研究室に応募してきたポスドクの日本人研究者たちも、面接に来て初めて日本人だと知ったという人もいました。

 30代になって名前が知られてくると日本の医学系の学会で基調講演に招待されたりするようになったんです。成田空港に着くと、お迎えに来た人たちの中に通訳がいるという(笑)。向こうが英語で話しかけてきて、「僕、日本語大丈夫です」というと「え、そうですか」と。冗談のような話ですが、本当なんです。何回か続きましたね。

加藤 せっかくだから、英語で通せば良かったのに(笑)。

佐藤 いや、さすがにそれは…。でも、通訳付きの講演だったので、英語で話して、質疑応答も英語で受けて、レセプションが夜にあって。そこで、大学の偉い先生たちがあいさつにいらした時にも英語で話しかけられまして。「あ、実は僕、日本人なんです」と言ったら、「えーっ」と驚かれました。「君が米国人だと思ったから全部英語の会にしたのに」と。それが続いて、次第に「トーマス・サトーは日本人」と知られるようになったのは2000年くらいでしょうか。

加藤 それは、講演会を準備する方も大変でしたね。大学時代の研究テーマと、大学院に行ってからのテーマは違っていたんですか。

佐藤 筑波大学では細胞生物学の研究をしていました。大学院からは「脳」について、博士号はニューロサイエンスで取りました。ただ、脳の研究を進めているうちに、脳はあまりにも複雑すぎて僕が生きている間に全てを解明することはできないと思い、自分の研究室を持ってからは血管の研究に変えました。

加藤 大学院は、ワシントンD.C.近郊のジョージタウン大学ですよね。医学や生物学ですごく有名というイメージではないように思いますが、なぜ選んだのですか。

佐藤 僕は、徹底して、既に有名になっているところには行きたくないと思うタイプなんです。大学3年生の時に、海外の研究者と交流する中でジョージタウン大学がニューロサイエンスの新しいプログラムを始めるらしいという話を聞いたんです。ワシントンD.C.にはNIHがあって、大学とイタリアの製薬会社が一緒に始めると。そこに応募したら奨学金と生活費を全て込みでアクセプトされました。他にもアクセプトされたところはあったのですが、やはりゼロから立ち上げるという点が魅力的でした。僕は1期生ということになるので。

加藤 普通は、1期生って不安ですよね。それで米国に乗り込んだ。

佐藤 はい。でも当時、僕は飛行機にすら乗ったことがなかったんですけどね。大学院で米国に行く時に生まれて初めて飛行機に乗りました。飛行機代は高いので、大韓航空で成田からソウルに行って、ソウルからアラスカ(アンカレッジ空港)に行き、アラスカからニューヨーク(JFK空港)を経由してワシントンD.C.に入るという経路でした。だから、初めてで4回飛行機に乗ったんです。

 実は、その前置きがあって、僕は大学4年生の時に結婚したんです。 

加藤 そうなんですか。

佐藤 妻は米国の大学院(化学の修士課程)を修了して、会社に行きながら米国でMBA(経営学修士)を取った人で、日本に帰ってきて技術営業の仕事をしていました。研究室に機器の説明に来ていて、そこで知り合ったんです。妻も米国に戻りたがっていたこともあって、結婚して一緒に。

加藤 なるほど。奥様の方が飛行機に乗った経験も多いし、英語も得意。