奥氏はこのローマの謎に悩み抜きました。その末に決めた開発の方向性は、結局はローマを気にせず、ただ無情なまでに硬いトラックを造るというものでした。奥氏は、新アンツーカ開発の目標を、「プロクターニードル#1針硬度120ポンド以上」と定めました。「硬度120ポンド以上」とは、靴のかかとを走路に押しつけて1回転しても表面が崩れないほどの硬さで、一般のグラウンドには硬すぎます。
単純に硬くするためには、アンツーカにセメントを混ぜれば、アスファルト・トラック以上に硬くできます。しかし、それでは硬すぎて選手が怪我をする恐れがあると同時に、一度崩れるとローラーを掛けても元の硬さに戻らなくなります。締め固めれば何度でも元の硬さと状態に戻せるアンツーカのメリットがなくなってしまいます。
それまでのアンツーカは、1928(昭和3)年にロラン・ギャロから持ち帰ったものの発展形であり、水はけを良くすることで“雨に強く”していました。同じ理論で、東京オリンピック設定目標レベルの硬さまで追い込むことには、そもそも構造的に無理がありました。
そこで、新たな視点が必要となりました。水浸しになっても硬度が落ちない「どんなときにも硬くて高性能」という発想で、新アンツーカを開発したのです。オリンピック走路舗装選定のために文部省・建設省・国立競技場・日本陸上競技連盟が構成した試験走路委員会による一般公募に、この新アンツーカをひっさげて応募した奥氏が選ばれました。1962(昭和37)年6月、国立競技場ホームストレートに長さ50m、6コースの試験走路を設置(図3)。全体の走路は1963(昭和38)年4月に完成しました。
同年の10月、オリンピック1年前のプレオリンピック(東京国際スポーツ大会)が開かれ、国際陸上競技連盟の審査を受けて、正式にオリンピック走路として承認されました。
次回は、東京五輪で実力を発揮したアンツーカと、その後に出現した技術との世代交代について、解説します。