国産アンツーカ、陸上競技場のサーフェスに

 サーフェスの歴史を語る上で、避けては通れないのが国立競技場です。近代日本における最大のスタジアムは、1924(大正13)年に完成し、1957(昭和32)年に解体された「明治神宮外苑競技場」でした。解体の翌1958(昭和33)年には新たな競技場「国立霞ヶ丘競技場」が完成。これは2015年に解体され、現在2020年オリンピック東京大会に向けて新国立競技場へ進化する予定です。

 初代国立競技場である明治神宮外苑競技場は、1943(昭和18)年に、2万5000人の若人を戦場に送り出す出陣学徒壮行会が挙行される舞台になり、敗戦後には連合国に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」と名を変え、1952(昭和27)年の平和条約締結とともに日本人の手に還り、明治神宮外苑競技場へ名前が戻ったという歴史を持っています。

 1943年、太平洋戦争の戦況の悪化とともに日本のテニスクラブは解散に追い込まれます。終戦後、進駐軍の占領が始まり、スポーツ振興を掲げたダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官は、第1回国民体育大会を京都の西京極陸上競技場で開きました。その競技場の施工を任されたのは、奥 庚子彦氏でした。

 それまでテニスコート造りしか手掛けたことのなかった奥氏に躊躇はありましたが、それまでの知見を最大限利用し、陸上競技場のポイントはより固く仕上げることだという直感を信じ、仕事を受けることを決断したそうです。その後、第2回から9回、日本全国で行われる国民体育大会の会場すべてで奥氏の施工が続き、これがやがて日本を代表する国立陸上競技場に関わっていく伏線となります。

 1957年に国立霞ヶ丘競技場が15億円で竣工したのを機に、それまで土だった走路をアンツーカに改修しました。テニスコートでは20mm厚だったアンツーカを、陸上競技場では50mm厚に敷きました。表面を締め固める(転圧)ためのローラーも大きく、微妙な調整が必要でしたが、このようなコンディションの加減は、先の京都の西京極競技場施工の経験がとてもプラスになったそうです。

 こけら落としとして、東京五輪の前哨戦であるアジア競技大会が行われ、アンツーカは世界にアピールできました(図2)。また1964(昭和39)年オリンピック招致が東京に決まり、奥氏にとって新たな目標が生まれました。

図2 国立霞ヶ丘競技場における第3回アジア競技大会の開会式
図2 国立霞ヶ丘競技場における第3回アジア競技大会の開会式
聖火台の位置(写真右上)は、東京五輪以降とは異なる。
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