雨が止んだ途端、コートキーパーが出現し、長い火箸のようなものでコートのあちこちに穴を開け始めました。驚きとともに凝視していると、何と水がぐんぐんと引いていきます。最後には、コートキーパーが金網のようなものを引いて穴をならし、元通りの美しいコートがまるでマジックのように甦りました。それこそがアンツーカだったのです(図1)。
その日本人、元大阪ガス会長の片岡直方氏はサンプルを持ち帰り、ロラン・ギャロ以上のアンツーカ・コートを造ってほしいと、奥商会の奥 庚子彦(かねひこ)社長に依頼しました。もともとテニス好きであり、当時の日本のコート・コンディションに不満をもっていた奥社長は、趣味と実益を兼ねてサーフェス専門の会社を設立し、国産初のアンツーカ造成をはじめとして多くの業績を残したというわけです。
ところで、日本では1937(昭和12)年、35面のアンツーカ・コートを備えた世界一のテニスクラブ「甲子園国際庭球倶楽部」が完成しました。欧米同様に社交の場として活用され、1939年には105面のコートを擁する大テニスクラブへと成長したそうです。
何が驚いたといって、これが戦前という大昔のことだったことです。筆者がテニスに夢中になっていた数十年前でさえ、日本にはテニスはわずかにしか浸透していないとしか思えませんでした。女子が12~13歳そこそこで硬式テニスなんかしていると体に悪影響があると、まことしやかにいわれておりましたし、強い選手も海外勢ばかりで、テニス界において日本は蚊帳の外というイメージしかありませんでした。なのに、それよりずっと昔に、この日本に世界的な規模のクラブがあったなんて!
提供された写真を拝見して、本当に日本かと驚かずにはいられませんでした。