テニスコートからスタートした日本のアンツーカ

 日本においてアンツーカのスタートとなったのは、テニスのコートでした。1928(昭和3)年、奥商会(のちの奥アンツーカ)創立とともに、日本初のアンツーカ・コートを個人宅に完成させ、話題を呼びました。

 それまで、テニスコートやグラウンドなどの造成や整備は、庭師と呼ばれた造園会社の仕事でした。スポーツ施設専門の会社はなかったので、いきなりサーフェスに特化した会社の出現は、さぞ珍しかったことでしょう。まして、テニスはまだ庶民のスポーツではなく、上流階級のたしなみでしたから。

 テニスが日本に入って来たのは明治時代。文部省が体育の教員を養成する際の指導方法を検討していたところ、1878(明治11)年に米国人教師リーランド(George Adams Leland)が紹介したという説があります。同年には横浜・山手公園に外国人慰留者のためのクラブとコートが誕生しました。

 そのテニスコート(クレイ舗装)は天然土舗装でした。土は天候の影響を受けやすく、雨が降ると軟弱化して使えなくなりました。この影響を減らすため、土質の改良が始まりました。テニスコート用には天然土(クレイ)に砂や性質の異なる土を混合し、大正時代には陸上競技場用に天然土に粒径5mm程度の火山砂利や石炭ガラ(鉄道や発電所で発生する石炭の燃えがら)を混合して耐雨性を高めたシンダー舗装が始まりました。

 オリンピックにおいては、第1回アテネ大会(1896年)から第10回ロサンゼルス大会まで天然土のトラックが使われました。当然、土は雨に弱く、競技は雨との戦いであり、記録は天候次第でした。

 近代舗装の歴史は第11回ベルリン五輪(1936年)から始まったと言えるでしょう。ベルリン大会に登場した赤い人工焼成土アンツーカを日本に紹介し、奥商会によりアンツーカ舗装が始まるきっかけを作ったのは、パリ・ブローニュの森にあるテニスコート「ロラン・ギャロ(Stade Roland Garros)」を訪れたテニス好きの1人の日本人でした。

 その日本人がテニスの試合を観戦しているとき、急に激しい雨が降り出しました。日本ではすぐ試合中止となるのが普通でしたが、ロラン・ギャロではコート表面に水が溜まりはじめても、観客は誰一人席を立たずに待っていました。彼はとても不思議に思いながらも、周りの真似をして待ってみました。