9. シドニー五輪(2000年)

図11 シドニー五輪(2000年)時の水着
図11 シドニー五輪(2000年)時の水着

 北京五輪のレーザーレーサー(LR)につながるハイテク水着時代の幕開けです(図11)。米航空宇宙局(NASA)や、バイオメカニクスやサメの著名な研究者たちも加わり、大変高度な研究開発を通して水着の歴史に革命を起こしたといっても過言ではないと思います。

 「ファーストスキン」は、シドニー五輪全選手中で男子61%、女子59%、メダル獲得者中で男子67%、女子66%が着用していました。そして、12の世界新記録に絡んだという数字を見ても、その威力が分かります。

 素材は、サメの皮膚表面の形状をヒントにした「表面リブレット形状」を伴うもので、全身を覆うフルスーツという発想も斬新でした。この素材は深さ0.1mm×幅0.5mmで間隔1.0mmの溝と、図12のようなうろこ状の撥水プリント(アクアブレードの撥水面積を1.5倍にした)を生地表面に加工した画期的な素材です。この溝内部に小さな縦渦が生じることにより、生地表面近傍に発生する乱流を打ち消します。さらに、うろこ状の撥水プリントがより大きな縦渦を発生させ、これが乱流をさらに抑えるように働くのです。

 ところで、どうしてサメの肌なんか参考にしたのでしょうか。それは、サメはイルカなどに比べて抵抗が少ない形にはなっていないのに、獲物を取るときなどはより速く泳げるからです。その秘密は皮膚の構造にあると、と当時も言われており、それが開発陣にとってのきっかけになったそうです。

 サメの皮膚は小さな突起で覆われていますが、その1つひとつに小さなV字状の溝があり、全体として細かい溝が形成されて、速く泳ぐときに皮膚表面に発生する乱流を打ち消す働きをしているのです。

図12 “サメ肌”生地表面の拡大
図12 “サメ肌”生地表面の拡大

 そこで、水着生地に溝を付けようと試みますが、柔らかい水着に均一に溝を付けるのは極めて難しいことでした。それに、溝を設けると表面積が増えて抵抗増加につながりかねませんから、単純に溝さえ付ければいいというものでもありません。人間が泳ぐときに抵抗を削減できる溝の実現を目指して試行錯誤を繰り返し、やっと前述した最適値が求められたのです。アクアブレードに比べて表面摩擦抵抗は約3%減少、撥水面積は50~75%になり、水を含みにくくすることで水中の軽量化も図りました。まさに、開発グループの魂の結晶ではないでしょうか。

 全身を覆って肌を露出させないフルスーツというデザインも斬新でしたが、これも抵抗削減のための発想から生まれました。人間が泳ぐときに受ける全抵抗の70~90%は形状抵抗だといわれています。流体の中を進む物体の後ろ(下流側)には渦が発生し、その渦が大きければ大きいほど物体を後ろに引っ張り、抵抗は大きくなります。特に、その物体の形が凸凹していると、流れが物体から剥がれることによって渦が生じやすくなります(図13)。逆に流線形にすると、渦の発生を抑えられて形状抵抗を削減できるのです。

図13 物体表面形状と水の抵抗
図13 物体表面形状と水の抵抗
物体形状に角や凹凸がある場合(上)には、水の流れを正面から受けて物体が受ける正圧抵抗(A)、下流側にできる渦による負圧抵抗(B)、水の粘性によって生じる粘性抵抗または摩擦抵抗(C)が生じる。Bは、渦が発生した領域の圧力が低くなり、上流側との圧力差で物体を後ろに引っ張ることによるもの。AとBを合わせて抗力または形状抵抗と呼ぶ。物体を流線形にする(下)と渦は発生せず、(速度によっても変わるが)負圧抵抗も受けなくなる。
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 すなわち、人間の体の凹凸をできるだけ抑えて流線型に近い形に補正するとともに、水流により生じる筋肉の振動や変形を抑えて抵抗の低減を図るために、できるだけ体を覆うスタイルが誕生したのです。

 シドニー五輪よりも前は、水着の面積を小さくすることで抵抗を削減しようとしていた時代がありました。逆に、体全体を覆う窮屈そうなウエアが速さを生み出すとは…。

 新幹線車両や船の形状など、広く工学的に応用されていた概念を水着に採用したことは、確かに進化だと思います。3Dボディースキャナーを用いて選手の体型を正確に測定し、凸部より凹部が難しいフィット性も縫製でクリアし、運動機能性を低下させずに姿勢保持効果を持つ「ファーストスキン」が誕生したのです。