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繊維強化樹脂と発泡スチロールを組み合わせる

ヘルメットを科学する・その2

2017/02/09 00:00

北岡哲子=日本文理大学特任教授

出典: 日経テクノロジーオンライン、2016年11月18日
(記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります)

 どのようにアライヘルメットが世界一のヘルメット・メーカーへ進化していったのか。「アライメットストーリー」を、社会的背景も含めて、紹介したいと思います。

 アライヘルメットという企業を年商100億円、従業員290名に育て上げ、海外にも広く名前を広げた立役者は現社長の新井理夫氏ですが、基盤をつくった事実上の創始者は先代の新井廣武氏でした(図1)。

図1 アライヘルメット事実上の創始者、新井廣武氏
写真:アライヘルメット
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写真:アライヘルメット
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軍用ヘルメット供給を一手に引き受ける

 廣武氏は、新井帽子店の長男として生まれました。帽子店といっても、1937(昭和12年)ごろから、陸軍の南方戦線従軍兵士用の防暑用ヘルメットや戦車帽など、軍用のヘッドギアを開発、供給していたそうです。

表1●アライヘルメットの前史
できごと
1902(明治35)年埼玉県度田村出身の新井唯吉氏が、東京・京橋に、官公庁用制帽の製造販売を目的として新井帽子店を起こす
1905(明治38)年11月18日、アライヘルメットの創始者、新井廣武氏は新井帽子店店主、新井唯吉氏の長男として、東京、京橋に生まれる
1932(昭和7)年新井廣武氏は陸軍被服本省の嘱託となり、帝国陸軍より帽子を含む各種頭部保護具の開発を委嘱される
1937(昭和12)年新井廣武氏は、現在の大宮市東町に新井コーブフエルト研究所(コープは廣武の音読み)として工場を設置する。以後、陸軍の南方戦線従軍兵士用の防暑用ヘルメット、戦車帽など数多くの帝国陸軍兵士が着用するヘッドギアを、陸軍省被服本省の要請に応え、開発する
1938(昭和13)年7月22日、2代目社長となる、新井理夫氏、創始者、廣武氏の長男として、東京都中央区京橋に生まれる
1941(昭和16)年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、第二次世界大戦に突入する。大戦中は、南方戦線向け帽暑用ヘルメットの供給を一手に引き受け、大宮市の工場にて大量生産する
1945(昭和20)年8月15日、日本の無条件降伏により太平洋戦争が終結。軍用ヘッドギア関連の製造活動休止。以後数年、新井廣武氏は、戦後の米軍占領下、統制経済の下、各種物資の流通を手掛ける

 太平洋戦争が終結すると、これらの製造活動は中止になりました。1949(昭和24)年、進駐してきた米軍から軍用ヘルメットの払い下げを受け、その再生による帽体(図2)に自社製の内装を組み込み、消防用など保安帽として売り出すことでヘルメット製造の事業を再開しました。1米ドル360円の単一為替レートが制定された年です。

 翌年の1950(昭和25)年には、人工プラスチックであるフェノール樹脂(ベークライト)を用いた帽体成形技術を開発し、自社製帽体によるヘルメットの製造・販売をスタートさせました。これが現在のAraiの原型です。

 1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和会議にて、日米安全保障条約(旧条約)が締結され、1952(昭和27)年には日本は連合国の占領下から離れて独立国家になりました。同年5月1日、戦後の学生運動で初の死者を出した「血のメーデー事件」が発生。この事件で警官多数が頭部損傷を受け、ヘルメットの重要性が認知されるようになり、アライにとって以後の道筋を決定づけるような年になりました。

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