繊維強化樹脂をヘルメットに採用

 同年7月、アライは日本初の保安帽JIS規格表示許可工場(表示許可番号1627)となります。同時に、ガラス繊維複合樹脂(FRP)製ヘルメット製造を日本で初めて開始したのです。

図2 ヘルメットの基本構造
図2 ヘルメットの基本構造
元図出所:製品安全協会資料、宇治橋貞幸「スポーツ工学講義資料」(東京工業大学)所収
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 FRPを採用したのは、たまたま廣武氏の知り合いにFRPで植木鉢などを造っている会社があって、そこからヒントを得たためだそうです。帽体の材質をFRPに変えたらどうか、と目を付けた社長の慧眼には脱帽すべきでしょう。今から見ても偉業であると感じます。

 それまでヘルメットと言えば、米Bell社の製品がシェアでも人気でもダントツの世界1位であったことは前回お伝えしました。ライダー誰もの憧れであったそのBell社も、全くの偶然でしたが、時を同じくしてFRP素材の採用に動いたのです。新井社長とBellの社長はお互いにレスペクトがあり、真似ることは絶対しなかったため、FRPという素材は同じであっても、両者の構造は全く違いました。

 アライは自ら製造した金型を使って、内側から圧力をかける熱加圧方式で一体成形していました。Bellはハンドメイド方式のシェルであり、アライより単位質量当たりのガラス含有量が高くて材料強度は高いものでしたが、左右2つのパーツをあとで接合して造るので、衝撃が加わったときは一体成形のものより割れる可能性は高くなるのです。ちなみにそのころ欧州のヘルメットは、革製の飛行帽(映画「紅の豚」に出てきそうな)を発展させたもので、材料にはポリカーボネート(PC)樹脂を使うのが主流でした。

 1953(昭和28)年2月には、公営の川口オートレースが開催されるにあたって、レーサー用のヘルメットの供給を開始しました。日本最初の商用乗車ヘルメットだったといいます。

 1958(昭和33)年に、新井廣武社長は衝撃吸収用のライナーの素材を、それまでのハンモックコルクから耐衝撃特性が高い発泡スチロールに変えました。FRP製帽体と、発泡スチロール製ライナーの組み合わせは世界で初めてでしたが、それがその後、乗車用ヘルメットに関する基本構造として世界の基本となったのです。1959(昭和34)年には日本初のオープンフェースヘルメットを誕生させ、1962(昭和37)年には慶應大学工学部卒業後米国に留学していた理夫氏が帰国してアライに入社。1963(昭和38)年には、日本で初めてSNELL規格に適合したヘルメットを開発、とストーリーは進みます。

 1976(昭和51)年になって、新井社長は「Bellよりもアライを信頼してほしい」と、社長自ら世界一への挑戦を宣言します。「大きな会社にしたいのではない。最も信頼できるヘルメットをつくるのが目的」としていました。1番を目指すと、それまで以上に品質改良に取り組むことになるからです。しかしこの年は社屋が火事に遭うなど、アライにとって悪戦苦闘の年でした。

 1977(昭和52)年、米国の選手にアライをかぶってほしいと、契約交渉のアプローチをしますが、無名のアライはバカにされ。目の前でメットを解体されて「良くできてるじゃん!」と言われただけで追い返されたそうです。しかし、この悔しさをバネに、国内4選手と契約を結び、そのうちの3選手が契約の翌月のF1レースで世界に躍り出たことで、風向きが変わりました。1978(昭和53)年、Ted Boody選手との契約により、新井社長念願の海外選手へのヘルメット供給が実現、とうとう海外レースに参入しました。しかもTed Boody選手は、Araiをかぶって優勝したのです。。