33年もの間箱根駅伝に出場できていなかった青山学院大学陸上競技部を就任10年で優勝に導き、2016年には大会連覇、39年ぶりとなる全区間首位という完全優勝に導いた原晋氏。一時は陸上界から身を引き、サラリーマンとして勤務するという異色の経歴を持った原氏が「IT Japan2016」(主催:日経BP社、2016年7月6~8日)で語った、青学を箱根駅伝連覇に導いた組織論、そして低迷が続く日本陸上界の改革案を、談話形式で2回に渡ってお伝えする。

「覚悟」が身についた挫折の経験

 私は広島県立世羅高校から中京大学を経て中国電力陸上競技部の1期生として入社しました。しかし、1年目に自らの不注意で怪我をして、27歳のときに選手生活を引退しました。ただし、引退の原因は怪我ではなく、そこに向き合う覚悟がなかったからだと思っています。

 中国電力では、さしたる実績も残せず引退。引退後は、それまでの本社勤務から地方の営業所やサービスセンターでの勤務などもこなしました。陸上競技の選手としての生活だけではなく、サラリーマンとしても挫折を繰り返してきたわけです。

 しかし、なんとかサラリーマンとしてもうひと花咲かせようと、覚悟を持って仕事に取り組みました。そして新規ビジネスの立ち上げメンバーに抜擢され、成功させることができたのです。そして36歳のとき、縁あって青山学院大学(以下、青学)陸上競技部の監督に就任しました。サラリーマン生活をした10年間、陸上界との関わりはありませんでした。選手として箱根駅伝に出場した経験はもちろんのこと、出場校OBでもなければ監督経験もない、異色中の異色の経歴を持った男と言えます。

講演を行った青山学院大学陸上競技部監督の原晋氏。現役時代は目立った成績を残せなかったものの、引退後、中国電力でサラリーマンとして再スタート。新規ビジネスの立ち上げと拡大に成功し、ビジネスマンとしての才能を開花させた。2004年に青学陸上競技部長距離ブロックの監督に就任すると、2009年、同大33年ぶりとなる箱根駅伝出場を果たし、2015年、2016年の箱根駅伝では連覇を成し遂げた
講演を行った青山学院大学陸上競技部監督の原晋氏。現役時代は目立った成績を残せなかったものの、引退後、中国電力でサラリーマンとして再スタート。新規ビジネスの立ち上げと拡大に成功し、ビジネスマンとしての才能を開花させた。2004年に青学陸上競技部長距離ブロックの監督に就任すると、2009年、同大33年ぶりとなる箱根駅伝出場を果たし、2015年、2016年の箱根駅伝では連覇を成し遂げた
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5年で箱根駅伝出場、10年でシード校を目指す

 青学陸上競技部の歴史は古く、創部は1918年。まもなく100周年を迎えるという伝統を持つチームです。しかし、私が就任した2004年まで、28年間箱根駅伝の出場はない状態でした。それも、予選会では予選通過校から10分も20分も遅れるようなチームだったのです。

 そんな中、2004年に学校から強化部指定を受け、私が監督に就任し、同時に寮や強化費、そして青学陸上競技部としては初めてとなる特別スポーツ推薦枠を用意してくれました。監督就任後、私は5年で箱根駅伝の出場権を獲得し、10年でシード校となり、それ以降で優勝争いできるチームにするという目標を立てました。

 この目標に向けて、強化の1期生となる選手たちを集めるため、日本全国の駅伝強豪校を訪ね歩きました。しかし当時の青学陸上競技部は箱根駅伝に箸にも棒にもかからないチームでしたし、私は監督としては何の経験もありませんでしたから、なかなか有力選手はきてくれません。ときには「原さんは日本選手権やオリンピックに出場されたことはあるんですか?」なんて、嫌味のように聞かれたこともありました(笑)。

 それでも何とか8人の選手をかき集め、2004年から選手との共同生活がスタートしたわけです。

原氏が2004年に大学にプレゼンをした際の計画表。それまで28年間箱根駅伝出場がなかったチームを5年で出場させるという目標を立てた。そのために、「強化部としての意識付け徹底」を謳い、組織力の強化に尽力したという
原氏が2004年に大学にプレゼンをした際の計画表。それまで28年間箱根駅伝出場がなかったチームを5年で出場させるという目標を立てた。そのために、「強化部としての意識付け徹底」を謳い、組織力の強化に尽力したという
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