言われたことだけしかしないので…

 ある会社は、従来の事業を維持しつつ他分野にも進出したいと思っていた。そのとき、素晴らしいニーズに出合った。しかし、とにかくご担当がよろしくない。よろしくないというのは、ダメ(無能)という意味ではなく、ほとんど言われたことしかしないということである。

 何かを指示しても「ハイ」と、返事はすこぶる良いのであるが、何せ、言われたことだけしかしないので、一から十まで分かるように指示しなければならない。そして、これが結構厄介なのだった。一を聞いて十を知ってほしいと言っているのではない。指示する人が伝えきれない余白の部分を、自分の知見やアイデアで埋めてほしかったのだ。それなのに、一を聞いて一しかやらない。

 これはもったいないと思っていたのであるが、とうとう思わぬことになってしまった。なんと、新商品の開発をしていて、競合他社の動向を知りながら、それを上司はもちろん同僚にも言わなかったのだ。しかも、こちらが競合の後追い的なコンセプトの開発であることも知りながら、それを言わずに上司の指示通りの開発を続けたのである。

 で、どうなったかといえば、それはそれは悲惨なもの。新商品のはずが二番煎じ、しかも知的財産権を侵害する恐れもあるというのだから、まさに踏んだり蹴ったり。さらには、もっと良いアイデアがあったのにと、後で言うのだから踏んだり蹴ったりどころか、倒れて動かない人に蹴りを入れるようなもの。犯罪とは言わないが、未必の故意であることは間違いない。

 そう、この事例はもったいないどころか、周囲が悲嘆に暮れたのは言うまでもなく、回復不能なダメージを与える結果になってしまったのである。だが、よく考えると会社側にも問題があったようだ。

 それは、日ごろの上下の関係が、言うところの上意下達(じょういかたつ)の一方通行であったということである。開発のスピードを上げるという目的が、有無を言わさずの上意下達では、言われた通りにするのが一番という雰囲気になってしまったに違いない。

 後から何を言っても仕方ないが、何ともったいないことであろうか。この担当者がおじけづかずにものが言える環境にあったらと思うと、悔やんでも悔やみきれないではないか。なんとも切ない気持ちになってしまった。

 だから、開発を進めるならば、いや、開発だけではなく日ごろの仕事をするときでも、自分なりに考えることを当たり前にしようではないか。

 どんなに強制的かつ高圧的な上司に言われようとも、まずは自分で考えること、つまり自考率を上げることが肝心なのである。そして、未必の故意的な、悲惨なことにならぬよう、日ごろの上下関係の風通しも良くしよう。それが、原理・原則なのである。

 ところで、私はどうかって?

 ははは、私は自考率100パーセント。私の会社だから、私の上はいないし、口火を切るのはいつも私なのである。

 えっ? ウソをつくな、1人、言いなりの人がいるだろうって?

 う~ん、忘れていた。確かに1人、絶対の人がいた。実は私、家内の言うことには100パーセント言いなりになっているのである。ああ、くわばらくわばら…(冷汗)。