大洋の真ん中で、突然船舶のエンジンが停止したら――。クルマの場合はロードサービスを呼べるが、海の上ではそうはいかない。船舶のエンジンや機器のトラブルは、船が停止することによる運航スケジュールの遅延や、船舶火災のような重大な海難事故につながることもある。海運会社にとって、大きなリスクをはらむ。

 海運や遠洋漁業などの分野では、エンジンや機器の故障を未然に防止する仕組みが古くから大きな課題になっている。従来は、機関長や機関士などが日々行う点検やメンテナンスといった“職人”による属人的な取り組みに頼るところが大きかった。熟練した機関士は、エンジンの稼働音や振動が「いつもと違う」という肌感覚で異常に気づくという。

 近年は、故障を未然に防ぐという課題がこれまで以上にクローズアップされるようになっている。船員のなり手不足を背景に、能力の高い船員を確保しにくくなっているからである。船員の能力に左右されずに故障を予防する仕組みの確立が急務になっているのだ。

 ここにきて、この予防(予知)保全の仕組みづくりに光が差し込んでいる。カギは「IoT(モノのインターネット)」だ。衛星通信を用いた海上のブロードバンド環境の整備がこれを支える。「陸上と比べて20年遅れている」と言われてきた海上のインターネット環境は、高速な常時接続サービスの普及で大きく生まれ変わろうとしている。

 理想の姿は、エンジンや船舶用機器の稼働状況をセンサーで常時計測し、そのデータを陸上の管制センターやデータセンターにリアルタイムに送ることだ。それを解析することで、故障の予兆を事前に検知し船に警告を送ったり、定期検査を簡略化したりする。この船舶IoTが船の予防保全を新しいステージに高めると大きな期待を集めている。

 海上のブロードバンド環境が整うことで、船舶IoTを用いた予防保全の取り組みは急速に普及しそうだ。多くの船舶には、既に船舶IoTを実現する基盤が搭載されているからである。エンジンの稼働状況や、気象情報、船の位置情報などを計測するセンサー群、計測データを蓄積しておくデータロガーやVDR(voyage data recorder)などだ。

 一般の工場やプラントの産業機器向けにIoT環境を活用した予防保全技術の開発が進んでいることも大きい。「数週間かけて大洋を航海する大型の船舶は、巨大なエンジンや発電機などを備えた、いわば洋上に浮かぶ工場やプラントと同じ。産業用途で開発が進むIoT基盤を応用できる可能性は高い」と船舶用機器メーカーの担当者は期待を話す。船上での利用に限られていた計測データを、海上ブロードバンドを活用して陸上の管制センターなどで常に監視・分析できるようになれば、一気に船舶IoTの導入が進むというわけだ*1

*1 産業機器向け予防保全の技術開発については関連記事「人工知能が工場の異常を20分前に予測」「キーワードは『共創』『デジタル化』『体験』、東芝がIoT事業を加速」を参照

専門家のアドバイスに基づいて適切に対処

 既に、大手海運会社は船舶IoTを用いた予防保全を本格化しようとしている。例えば、海上ブロードバンドを用いてエンジンの稼働状況を陸上から監視する取り組みだ。

エンジンの状態監視システムを搭載した商船三井のメタノール専用輸送船「MAYARO」。(画像:商船三井)
エンジンの状態監視システムを搭載した商船三井のメタノール専用輸送船「MAYARO」。(画像:商船三井)
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 商船三井は、2015年10月に竣工したメタノール運搬船「MAYARO」で船舶IoTシステムの運用を始めた。エンジンの温度や圧力、燃料消費量に加え、エンジンの負荷に影響を与える海象状況などを計測・蓄積しておき、そのデータを一定間隔で陸上のデータセンターに送る。それを多面的に解析することでエンジンに異常がないかを診断する。

 解析はエンジンの開発企業とタッグを組んでいる。エンジンメーカーは船から送ってきたデータと、製造時の工場での試験結果を比較し、エンジンの稼働状況を診断する。エンジンに異常があった場合には、その原因分析や、交換が必要な部品の特定などが可能になる。

 商船三井が採用したシステムの名称は「CMAXS e-GICSX」。日本海事協会(ClassNK)や三井造船などが開発した。特徴は、センサーで収集した多様なデータの相関関係を解析することで、船員の点検では見つけにくい異常の予兆を検知したり、原因を詳細に分析したりできることだ。従来は、エンジン関連のセンサーの単独の値がしきい値を超えたときに船内でアラートを出すような単純な監視システムが一般的だった。

 ただ、現状ではリアルタイムに陸上のデータセンターとデータをやり取りしているわけではない。船内では数分に1度の頻度でデータを計測しているが、陸上にデータを送るのは1日に1度程度である。このため、早期にエンジンの異常を検知する目的で、船上のパソコンに載せた異常検知用の解析ソフトウエアを用いた前処理を施している。これによって、異常が起きたら船上で早く発見できると同時に、解析結果を受け取ることでエンジンメーカーによる診断の精度を高める狙いだ。

 異常検知用の解析ソフトウエアは、日本IBMが開発した機械学習技術「ANACONDA」をベースにしている。あらかじめ学習した平常時の稼働モデルと、計測データを比較することで異常を検知する仕組みだ。平常時の稼働状況をモデル化するためには大量の実測データを用いた機械学習が必要となる。このため、商船三井は、MAYAROの竣工後2カ月ほどをデータ収集期間に充てたという。

 現在は、MAYAROを含む2隻のメタノール船で状態監視システムを運用している。運用開始後、幸いなことにこの1年間で大きなトラブル回避が必要になるようなエンジンの異常は出ていないという。それでも、船の安全運用やコスト低減には今後欠かせない技術になると期待は大きい。

 商船三井で今回のシステムの導入を推進した清家康之氏(海上安全部 船上ITグループ グループリーダー)は、「これまでは個人の経験に頼る部分が大きかった。それでは、エンジンの機種、船の種類ごとの得意・不得意によって、異常に気付けるかどうかが変わってくる。異常に気付いても適切な対処ができるとは限らない。陸上とデータをやり取りすることで、そのエンジンを知り尽くしたメーカーのアドバイスに基づいて対処しやすくなる」と指摘する。

 現在、IT(情報技術)関連の仕事に携わる同氏は以前、商船三井の船舶で船長を務めた人物だ。その経験からも、船舶IoTの導入は大きな効果があると見ている。