2016年3月。富士通研究所で新規事業の開拓に携わる阿南泰三氏は、千葉県・館山沖で東京海洋大学の「汐路丸(しおじまる)」に揺られていた。汐路丸は、学生が船舶の運航について実践的に学ぶための練習船だ。普段は操船実習や計器を使った実験などに使われている。

 なぜ、大手IT(情報技術)企業の研究者が汐路丸に乗り込んだのか。それは、船の上で“ある実験”をするためだ。「次は、右から風を受ける状態で航行してみてください」などと船長に指示を出す阿南氏。他の実験をする学生たちに交じって、船酔い防止の薬を飲みながら行った船上での実験は、2泊3日にわたった。

実験時に撮影した、「汐路丸」の甲板から望む景色。(写真:富士通研究所)
実験時に撮影した、「汐路丸」の甲板から望む景色。(写真:富士通研究所)
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 実験の目的は、阿南氏らが開発した船舶の性能解析技術を、実際の船に応用できるかどうかを実証すること。この技術は、船舶とは全く異なる分野で応用が進む「高次元統計解析」を転用している。船の運航時に、海上での波や風が船速、燃費といった船舶性能に与える影響を解析するために開発した。気象条件が変われば、船舶性能は大きく変動する。阿南氏は多様な条件下での運航データを収集するために汐路丸に搭乗したのだ。

船の上でもIoTの活用が当たり前に

実験に使用した、東京海洋大学 海洋工学部の練習船「汐路丸」。(写真:富士通研究所)
実験に使用した、東京海洋大学 海洋工学部の練習船「汐路丸」。(写真:富士通研究所)
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 技術開発の背景には、海上のブロードバンド環境の整備が大きく進んでいることがある*1。ここにきて、陸上と同様に定額かつ常時接続可能なブロードバンドサービスの利用が海上でも本格化し、通信速度の高速化も同時進行している。

 今後、通信速度や通信料金がさらに改善していけば、海を航行する船の上でもIoT(モノのインターネット)の活用が当たり前になっていく。阿南氏はIT企業の研究者として、そこに目を付けた。

*1 海上ブロードバンドの最新動向については「無人船が象徴する、全地球IoT網の姿とは」を参照

 運航時の船舶性能は、海運会社や造船会社の大きな関心事である。船舶の運航に必要な燃料費の多寡に直結するからだ。例えば、国内海運大手が1年間に支払う燃料費は1社当たり数千億円。1%でも削減できれば、コスト削減の効果は大きい。

 既に、数年前から実際の海上の状況を燃料費の削減につなげるサービスは普及している。気象情報サービス大手のウェザーニューズ(WNI)などが提供している「ウェザールーティング」と呼ばれるサービスはその代表例だ。海洋の気象情報を用いて最も燃費が良くなる適切な航路などを提案する。

 世界的な海運不況に見舞われている海運各社は、海上のブロードバンド環境を運航コストの削減に生かす術を血眼になって探っている。これは、海運企業を顧客とする造船会社も同じだ。燃費性能の高い新船を開発できれば、受注での強力な武器になる。このため、船体やプロペラの形状、エンジンなどの技術を開発するための新しい知見を求めている。

 富士通研究所は、こうした海運会社や造船会社の要望を満たすことを目指して船舶の性能解析技術の開発プロジェクトを始めた。今回開発した技術の特徴は、海上で計測した船舶性能の実測データを用いて統計モデルを構築する点だ。そのモデルを基に様々な条件下での船舶性能を高い精度で推定できる。つまり少ない実測データからその船に特有の一般化モデルを作り上げ、そのモデルに基づいて実環境における船の性能を推定するわけだ。

 実際、汐路丸の実験で構築した統計モデルでは、船舶性能の推定誤差が5%以下に収まったという。阿南氏が船上で収集した実際の運航データを学習用と評価用に分け、学習用データで構築した統計モデルの出力値と、実際の船舶性能を表す評価用データの値を比較した。

 このほか、東京海洋大学の持つ別の商船の運航データでも同様に統計モデルを構築し、技術評価に使った。この統計モデルを用いた東京からロサンゼルスまでの航路シミュレーションでは、最短航路よりも燃料消費量を約5%抑えられたという。東京海洋大学が開発したウェザールーティングシステムを使用した。このシステムでは、燃料消費量を最小にするような最適航路を探索するために気象予報と船舶の性能モデルが必要だ。ここに、富士通研究所の作成したモデルを使用した。

 富士通研究所の開発した性能解析手法は、その船の「実際の運航データだけ」でモデルを構築することがポイントだ。これまで、船舶の性能解析では、船舶の縮小模型と水槽を用いた試験や、物理モデルによる数値解析を用いることが一般的だった。今回の技術は、ありのままの運航データをまとめて解析することで、経年劣化のように物理モデルや縮小模型では表現しにくい要因も含めて性能を推定できる。

 船舶の性能解析で扱うデータ空間は、約30次元と極めて次元が高い。具体的には、波や風、海流などの気象情報、エンジンの回転数や舵角などの運航条件、そして船速や燃料消費量の性能などから成る。このデータを基に高次元統計解析技術で船舶性能をモデル化し、実環境の気象情報や運航条件のデータから船速や燃費などの船舶性能を推定する。

 実測データで船舶性能を高精度で解析できると、これまでにないアプローチで船舶性能を改善できる可能性がある。例えば、船体構造に施した工夫を高い精度で評価したり、燃料消費の少ない運航方法のヒントを得たりといったことだ。海運業界からの評価は上々で、現在はパートナーである海運会社と実証実験を進める段階だ。燃費改善への期待は大きいという。