脳を直接、"しつける"

――脳の活動データを測定することで、その人が何を見ているのか分かるというのはすごいことですね。

川人氏 そうした脳の中の情報を読み出す技術のことを「デコーディング」と呼んでいます。デコーディング技術の進歩は目覚ましく、睡眠中にどのような夢を見ているのかさえ分かります。

 また、ATRでは、脳の中の情報を読み取りながら、外部環境から何らかの刺激を与えて、感じていることや記憶していることを好ましい方向に導く研究にも取り組んでいます。「デコーディッド ニューロフィードバック(DecNef)」と呼ぶ技術です。子どもを褒めたり叱ったりしながら、しつけるのと同様のことを、脳に対して直接行うものです。fMRIを使って脳内の状態をリアルタイムで測り、好ましい状態になったときに、すかさず被験者が喜ぶ報酬を出します。こうした学習を繰り返すことで、本人が気づかないうちに好ましい脳内の状態が定着します。

 DecNefを活用すると、人の感覚や行動、感情を、無意識のうちにはっきりと変えることができます。実際には白黒のモノに色が着いているように見えたり、人の顔の好みを変えたり、判断を下すときに自信がわくようにしたり、恐怖記憶を消したり、さまざまなことが実証されています。

 外部からの刺激には、電気や磁気の印加といった過激な手段は一切使っていません。チョコレートや金銭を与えるといった、簡単な報酬を与えるだけで脳内の状態が変化していきます。動物の心理学でいう、「オペラント条件付け(道具的条件付け)」と呼ぶ方法です。効果的な報酬の種類や与えるタイミングは、研究のトピックスの1つになっています。

人の心の状態は検査できなかった

――DecNefは、どのようなことに活用できるのでしょうか。

川人氏 応用分野は極めて広いと思います。そもそも、脳が関係しない職業はありません。中でも、これまで科学的なデータに基づく治療ができなかった精神疾患の医療への応用に期待しています。ATRにはクリニックが併設されており、そこでは自閉症や薬による改善がみられないうつ病などの患者さんに治療を試み、DecNefによって症状が改善する結果が得られています。

 症状と脳内の活動の因果関係を明確にしながら適切な治療ができることは、精神疾患の医療に革命を起こします。自閉症の方は、世の中にはたくさんいるわけですが、生物学的、客観的に診断することができなかったのです。問診などを基に担当医師が診断を下すしか術がないため、診断結果には主観が入ってしまう可能性があります。脳内回路のデータを基に診断できるようになれば、当事者の状態を正確かつ詳細に把握できます。また治療の進め方も大きく変わるでしょう。これまでは治療の効果を精査しながら手探りで進めていたのですが、脳内回路の状態を確認しながら的確な方法で健常な状態へと変えていくことができます。

――なるほど、精神疾患は脳の活動の検査を基にした客観的な治療ができなかったわけですか。DecNefの応用によって、検査して病気の状態を知り適切な治療をするという、当たり前の医療の方法論を精神疾患に初めて適用できるようになるということですね。

川人氏 はい。うまく行けば、病気自体を定義し直すこともできるでしょう。今、うつ病には大きく3種類あると言われています。強いうつ症状が長期間続き、日常的に憂鬱な状態が続く「大うつ病」、うつ状態と躁状態を繰り返す「双極性障害」、軽いうつ状態が長く続く「気分変調症」です。こうした症状の違いが、どのようなメカニズムで生じるのか、分かってくると思います。

 これまで違う病名で呼ばれていた統合失調症と自閉症が実は、つながりが強く、特定の脳の回路に原因があることが分かっています。これまでの病気の分類は、従来の診察方法で決められてきたものであり、生物学的な検査に基づいて分類されているわけではありません。脳の活動の様子で精神疾患を明確に再定義できれば、病気や患者の状態に合わせて的確な治療を施す、精密医療や個別化医療が可能になります。