本稿は、日経ビジネススクール(日本経済新聞社、日経BP社)が主催する次世代リーダー向けセミナー「テクノロジーインパクト2030」の講師に、各研究分野でのテクノロジーの進歩が近い将来に何を起こそうとしているのか、ビジネスにどのようなインパクトを与えると考えているのかを聞いたものです(関連記事1関連記事2関連記事3)。

 人の心や意識は、最も身近な究極の謎だ。誰もがその存在を感じることができるのに、その正体は全く分からない。

 体の不調を感じたとき、私たちはX線写真の撮影や血液検査などを行って、不調の原因を詳しく調べる。心や意識は、脳という人の器官の働きで生まれたものだ。しかし、心に病を抱えたり、ひどく落ち込んだりしたとき、病院でどんなに脳を検査してもその原因を知ることはできない。脳がどのように働くことで、心や意識が生まれているのか、その仕組みがよく分かっていないからだ。

 脳はブラックボックスである。教育や訓練で、その能力が高まることは誰でも知っている。ところが、どのような作業や経験の中で、どのくらい学習すれば能力が高まるのか、脳の学習原理に基づく効果的な学習法は分かっていない。ただ、イチローは子供のころ毎日のようにバッティングセンターに通い詰めていた、藤井四段は寸暇を惜しんで詰め将棋の問題を解きまくっていた、といった学習の行為と結果から、学習方法の妥当性を推測することしかできない。

 パソコンやスマートフォンなどの電子機器は、内部に搭載する一つひとつの部品の機能とそれらを結びつけて作る回路の構造が詳細に分かっている。だから、故障を直す方法も、機能や性能を高める指針も極めて明確に決めることができる。もしも、これまでブラックボックスだった脳の回路構造や活動の様子が詳細に分かったら、いったい何ができるようになるのだろうか。これまで望むべくもなかった効果的な方法で、心の病を癒やし、学習することができるのではないか。実は、そんな未来が、すぐそこまで来ている。

 脳の働きをつぶさに調べる方法とその活用法を研究する国際電気通信基礎技術研究所(ATR) 脳情報通信総合研究所 所長・ATRフェロー 脳情報研究所長の川人光男氏に、脳の働きはどのくらい分かってきたのか、また最新の脳科学の研究成果によって医療や教育などにどのようなインパクトを及ぼす可能性があるのか聞いた。

もはや脳はブラックボックスではない

――脳科学の進歩によって、人間の脳の働きは、どのくらい解明されてきたのでしょうか。

川人氏 一言で脳科学と言っても守備範囲は広範です。ただし総じて言えば、この半世紀の間、急激に進歩した分野であることは確かです。これまで脳科学は、大きく2つのアプローチで研究が進められてきました。

 1つは、動物を対象にして、ニューロン(神経細胞)の詳細な活動を調べる研究です。動物のゲノムに、光に反応するタンパク質を生み出す遺伝子を組み込み、脳の中の特定部分の脳細胞だけに光を当てて興奮させて、脳内の他の部分への活動の広がりを調べることができるようになりました。オプトジェネティックス(光遺伝学)と呼ぶ手法です。さらに10年ほど前、二光子顕微鏡と呼ぶ特殊な顕微鏡を使えば、生きている動物の数多くの神経細胞の活動データを同時に得ることができるようになりました。これによって、脳細胞と脳全体の活動の因果関係が詳細に分かります。今では、光を脳細胞に当てて、ニセの記憶を刻み込むといったことさえできます。

 もう1つは、人を対象にして、非侵襲で脳の活動を調べる研究です。小川誠二先生(現 東北福祉大学 特任教授)が発見した機能的磁気共鳴映像(fRMI)の原理に基づいて、脳の活動を映像化する装置が約20年前に実用化されました。そのおかげで、脳内の各部分の活動を行動や心の動きと対応させて理解できるようになり、人の脳の働きに関する研究が一気に加速しました。

川人 光男(かわと・みつお)氏
川人 光男(かわと・みつお)氏
国際電気通信基礎技術研究所(ATR)脳情報通信総合研究所 所長・ATRフェロー。1976年東京大学理学部物理学科卒業。1981年大阪大学大学院博士課程修了。工学博士。2003年ATR脳情報研究所所長、2004年ATRフェロー。2010年ATR脳情報通信総合研究所所長。2013年よりAMED脳プロBMI技術精神・神経疾患等の治療グループリーダー、2014年内閣府ImPACTプログラム“脳情報の可視化と制御”携帯型BMI領域統括技術責任者、2016年理研AIPセンター特任顧問を兼任。

――動物を対象にして脳細胞の詳細な動きが、そして人間を対象にして脳内の各部分の働きが分かってきたということですね。それぞれのアプローチの知見を組み合わせると、人間の脳の働きがより克明に見えてくるような気がします。

川人氏 その通りです。2つのアプローチの研究結果をいかにして滑らかにつなぐかが、今ホットな研究領域になっています。双方の研究結果は、最近人工知能としてさまざまな分野で活用されるようになった、ディープラーニング(深層学習)を主体にした理論で結びつける試みが進められています。そして、この研究領域が3つめの柱として立ち上がりつつあります。

 例えば、ATR 神経情報学研究室 室長の神谷之康氏は、ディープラーニングのニューラルネットワークのモデルにfMRIで計測した脳の活動データを組み込むことで、人を傷つけることなく、その人が5000種類のモノのうちのどれを見ているのか推定できることを示しました。また、同じモノを動物と人工知能の両方に見せて、実際の神経細胞とニューラルネットワーク内の挙動の対応を調べるといった研究も進んでいます。

 近年、にわかに注目が集まったディープラーニングですが、実は脳科学の分野では馴染み深い技術です。ノーベル医学・生理学賞を受賞したデイヴィッド・ヒューベル氏とトルステン・ウィーゼル氏の視覚情報の処理に関する発見を源流として、既に50年以上にわたって研究されてきました。

 ただし、より複雑で詳細な脳科学の研究にディープラーニングを応用する環境ができたのは、最近のことです。計算機が高性能化し、より複雑な脳の活動をモデル化して再現できるようになりました。また、ディープラーニングの学習には、数千万、数億といった莫大な数のデータが必要ですが、学習に用いる画像データをネット上で研究者が手軽に入手できるようにもなってきました。