慶應義塾大学大学院の前野隆司教授と、デザインファーム「NOSIGNER(ノザイナー)」の代表を務める太刀川瑛弼さんによる対談の第3回。「言語化可能なコンセプトにならないものはやりません」と全てのプロジェクトで必ず直接的な理由につなげることを信条にイノベーションを起こし続ける太刀川さん。東日本大震災を体験してから、行政資料史上、最大級の出版物となった「東京防災」を手掛けるまで決して順風満帆ではなかったその道程を振り返りながらポイントとして挙げたこととは。
前野教授(左)と太刀川さん(写真:加藤 康)
前野教授(左)と太刀川さん(写真:加藤 康)

東日本大震災の40時間後にwikiサイト

前野 前回、東日本大震災の話が出ましたが、太刀川さんは災害時に有効な知識を集めて共有するwikiサイト「OLIVE」を作ったんですよね。

太刀川 はい。震災の40時間後に作りまして、「みんなで被災地の役に立つオープンなデザインや、オープンなアイデアをいっぱい書き込む掲示板を作ろうぜ」と呼び掛けました。サイトを立ち上げてから2週間で100以上の投稿があって、どんどんそれが翻訳もされていき、震災から約3週間くらいで1000万人くらいの人に届きました。そして僕にとっては大きな決断があって、この「OLIVE」をやるために僕は「覆面デザイナー」であることをやめました。

前野 覆面デザイナー?

太刀川 実は震災の当日まで本名を名乗って活動していなかったんです。5年間ほど僕はずっと匿名のNOSIGNERで、「謎のデザイナーが何か出しているぞ」という状態でした。

前野 そうだったんですか。

太刀川 覆面デザイナーをやめるということは、震災後にいろいろと考えたことの1つでした。匿名で、1人でずっと作っていくことには何の支障もありませんでした。しかし、「OLIVE」では様々な人たちとコ・クリエーションしていかないといけなかったので、匿名の活動は難しいと。

災害時に有効な知識を集めて共有するwikiサイト「OLIVE」は、東日本大震災発生から40時間後に開設された。名称の由来は、O(日の丸)+ LIVE(生きる)。「生きろ日本」との願いで名付けた。物資のない被災地で生きるために必要なものを身の回りのものから簡単に作るためのアイデアが世界中から集まった。(写真:NOSIGNER)
災害時に有効な知識を集めて共有するwikiサイト「OLIVE」は、東日本大震災発生から40時間後に開設された。名称の由来は、O(日の丸)+ LIVE(生きる)。「生きろ日本」との願いで名付けた。物資のない被災地で生きるために必要なものを身の回りのものから簡単に作るためのアイデアが世界中から集まった。(写真:NOSIGNER)
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前野 本名を名乗って行った「OLIVE」がベースとなって、それ以降も東北に関わるようになっていくんですよね?

太刀川 そうです。その時に出版した本が基になって、東京都の防災ブック「東京防災」ができました。

前野 「東京防災」を作っていく過程の太刀川さんは順風満帆に見えるけど、実際はどうだったんですか?

太刀川 実は合間、合間で世の中から必要とされていないタイミングもありました。「OLIVE」は話題になったし、すごく盛り上がっていったのですが、被災地に物資が届くようになる6月頃には逆に「OLIVE」は実際の被災地での役割が収束し始めていたんです。

 支援が情報からモノに変わり、さらに経済支援に重きが置かれるようになっていったからです。そうなると大量にたまったデータベースは防災にしか役に立たなくなって、僕は防災の展示をやり始めました。そんな中で「OLIVE」を基にした書籍を発行したりしました。

 でも、そのタイミングでは防災よりも被災地支援の方が大事だったので、別の方向性の役割を模索しました。そして被災地で産業が足りないのが課題になってきていたので、OCICAという鹿の角のアクセサリーのブランドを仲間と立ち上げたりもしていました。

前野 いろいろなことをやってきているんですね。

太刀川 そうしているうちに、「防災産業を手掛けることは、面白いのかもしれない」という気付きがあったんです。「世界最大級の災害があったところが、世界最大の防災産業のメッカになったら、それは希望にあふれていてかっこいいビジョンだ」と思いつき、「防災産業をやりたい」と仙台市の人たちに提案しました。でも、なかなかパートナーが見つからず、スタートがうまく切れずに頓挫しました。