今再び、製造業の中心となるべく動き始めた米国。そこに食い込んでいくために、今、日本企業は何をするべきなのか。今回は、米国シカゴで日本企業の米国進出支援などを行う米I.T.A社 Presidentの岸岡慎一郎氏とリンカーズ専務執行役およびLinkers International Corporation 取締役社長を務める桑島浩彰氏との対談を通じて、具体的な方法を探ります。

リンカーズ 専務執行役員の桑島浩彰氏(左)とI.T.A.社Presidentの岸岡慎一郎氏(右)。(以下写真:加藤 康)
リンカーズ 専務執行役員の桑島浩彰氏(左)とI.T.A.社Presidentの岸岡慎一郎氏(右)。(以下写真:加藤 康)
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桑島氏:岸岡さんは現在、米国のシカゴにお住まいですが、中学・高校生時代にも米国に住んでおられて、米国における製造業の変遷をご覧になってきたと思います。1980年代は直接投資の時代、1990年代に貿易摩擦があって、2000年に入ると中国の追い上げがありました。現在、日米の製造業の間では直接投資が非常に増え、日本企業が米国で100万人以上を直接雇用している中で、サプライチェーンとしても日本企業の存在は大きいと思うのですが、一方で、日系企業が現地に進出したといっても、日系企業同士の取引が多いなど、実はまだまだビジネスチャンスが大きく転がっているようにも見えます。

 米国の製造業については空洞化などといわれ、製造業そのものはメキシコに行ったりカナダに行ったり、場合によってはASEANに行ったり、オフショアリングがずっと続いてきました。しかし、Barack Obama米大統領は、製造業を米国に戻すべしという方針を示しました。そんな中、シェールガス革命があったりして、製造業関連にも少しずつ投資が戻ったりしてきているように見受けられます。このような背景の中、ここ2-3年はIoTやAIなどソフトウエアと製造業が融合しつつある、非常に大きな変革の流れの中にあります。

 今回はこの、米国の製造業の変容という大きなテーマの中で、特に、岸岡さんがシカゴで感じている日系企業の現状を伺いたいと思います。シリコンバレーの話はよく聞きますが、中西部で何が起きているのかはなかなか分からないし見えにくい。加えて、米国企業から日本の製造業がどのように見えるのか、現地での視点も伺いたいです。米国に進出する日系企業について、何ができていて何ができていないのか、もしくはこれから何をすべきかといったところをマクロな視点で整理することは、非常に重要ではないでしょうか。

 まず、岸岡さんの経歴と今、どのようなことをやっているかなどをご紹介くださいますか。

岸岡氏:シカゴに住み始めたのは1970年、1歳の時です。父が三菱商事のシカゴ支店勤務となったためです。日本に戻ったのは小学生の時です。

 その頃、父はお客様から米国進出の支援する会社をつくって助けて欲しいと言われ、1980年にI.T.A社を立ち上げました。I.T.A.はInternational Trade Allの略で、非常に商社的な名前です。三菱商事を辞めると就労ビザが取得できないであろうということでしたが、父が虎ノ門(駐日米国大使館)で「昨日の俺と今日の俺は何が違うんだ」とほえたところ、「決算書を毎年出す」「少しでも米国からの対日輸出の支援をする」「日本企業の米国への進出も支援する」という三つを条件として就労ビザがその場で下りました。だから、商社のような名前を付けたんです。

 創業から10年は自分の会社を大きくせずに、他企業の米国進出支援のほか、一部の会社では社長業などを兼務していました。私はその時代に米国に再び戻り、中学生・高校生時代をシカゴで送りました。ちょうど日本から米国への進出ラッシュでさまざまな経営者が自宅に来ており、その後ろ姿を見ながら育ったのです。例えば、レンタルのニッケンや無線操縦玩具メーカーのニッコー、明治電機工業など、一部上場の技術商社や自動車メーカーなどが出てきていました。

 その頃は「小さく生んで大きく育てる」時代でした。ニッコーがテキサスに建てた工場が1000人規模の大きさになったり。レンタルのニッケンは、高所作業車や仮設トイレなど日本で独自で開発しても、あまり価値がないものを米国からどんどん取り込み、現場で困っている作業者やお祭りに行ってもトイレがないといった問題をレンタルによって解決していくことで、大きくなったりしました。

 私は、日本のことを学ぼうと日本の大学に進み、日本で働いてみようと考えて伊藤忠商事に入りました。同社では宇宙・航空・産業機械部門で働いていたのですが、1998年末に退職し、またシカゴに戻りました。永住権が切れる前の、ちょうどいいタイミングだったんです。そして、1999年からI.T.A.社で働き、2005年に社長に就き、今日に至っています。

 当時、I.T.A.社では、主に三つの事業が柱になっていました。約束していた商社業務としての対日輸出、日本企業の米国進出支援、そして技術支援です。これはITを中心とした情報格差が日米で大きくなってきて「助けてくれ」という現地の日系企業の言葉に応えて立ち上げた事業です。

 最近はマーケティングリサーチなどをはじめ、輸出入における商品的な情報を得るのがだいぶ容易になってきました。そこでターゲットを、エンドユーザーから専門会社やプロフェッショナル企業などに向けた支援に徐々に切り替えています。さらに、スピード重視の時代なので、駐在員代行的に調べ上げて報告するスタイルから、身内として、サイド・バイ・サイドの分身で動くようなスタイルにしてきました。

 こういうスクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきましたが、1990年代に大きく変わりました。専門・プロフェッショナルを相手にし始めると、非常に厳しいお題ばかり来るようになったんです。大手のコンサルティング会社やリサーチファンドでは調べ上げられない、本当にニッチでマニアックな技術や製品、ビジネスの依頼が来るようになり、それで鍛えられました。