本コラムでは2回に渡り日米の製造業の違いについて紹介してきました。今回は桑島浩彰氏(リンカーズ専務執行役、Linkers International Corporation 取締役社長)が、どのような経験を通じてリンカーズにたどり着いたのか、その遍歴をたどります。

リンカーズ 専務執行役員の桑島 浩彰氏(写真:加藤 康)。
リンカーズ 専務執行役員の桑島 浩彰氏(写真:加藤 康)。
[画像のクリックで拡大表示]

 私は現在、リンカーズというベンチャー企業の米国での活動を通じて、シリコンバレーや米国の中西部と日本の製造業をつなぐことで、日本の活性化を実現しようと日々奮闘しています。私は社会人になってから、ハーバードで経営大学院と行政大学院に両方に留学するという機会に恵まれました。またその後の仕事の経験を通じて、日本と米国の違いを強く感じています。今回は、私のこれまでの経験と、そこで見えた日本の問題点をお話します。

 大学を卒業して、最初に就職した先は三菱商事でした。生活産業グループというところでコーヒー豆を担当し、アフリカや南米、コーヒー豆を買い付けに行き、そして全国のコーヒー焙煎業者に販売しました。それこそ、コーヒー畑から缶コーヒーまで、食品の流れを上流から下流まですべて見ていた訳です。こうした業務についたのは、私の実家は金沢で戦後からずっと食品卸を営んでおり、30歳になったら実家に戻って継ぐという約束の下の就職だったからです。まあ、いろんな思惑があった就職でした(笑)。

 30歳になって実家に帰ったら、経営者ファミリーだからこそ、下積みから始まることが決まっていました。ならばそれまでに米国に行って勉強しよう、それが私の目標でした。30歳に戻るなら26、27歳で留学しなければならない。そこで入社5年目にハーバード大学経営大学院のビジネススクールに行きました。

 昔から、自分の底流には「日本が衰退していくのがくやしい」という思いが流れています。自分の出身である金沢、石川県は北陸新幹線も通ったこともあり好景気ですが、その周辺地域は高齢化が進み、シャッター商店街が増え、「日本って衰退しているなぁ」と、東京の人が感じるよりも10年くらい早く感じていました。地方の衰退を目の当たりにして育ち、何とかしたいという思いが強くあったのです。

 自分は日本のために仕事がしたい、ならばやっぱり政策も分かっておかなければならないじゃないかと思って、経営大学院に加えて行政大学院(ケネディスクール)にも入りました。たまたま奨学金をもう1年もらえることになり、どうせ金沢に戻ってトラック運転手からやるんだから、もう1年くらい米国にいてもいいだろう、という思いもありました。そこには日本の官公庁から来た留学生もいて、ジャパン・アズ・ナンバーワンを執筆されたエズラ・ボーゲル先生を囲んで日本のあるべき姿みたいなものを青臭く議論していました。

 この留学時に、日米で3つのことが起こりました。1つがリーマン・ショック。投資銀行に内定をもらっていたビジネススクールのアメリカ人の同級生が、全員内定を取り消されたりというのを目の当たりにしていた。次に、オバマ氏が大統領になった。米国も「Change」といって、変わるんじゃないかという期待が高まりましたね。3つめは、日本で政権交代が起きたことです。留学2年目の夏休み、日本も民主党になったら日本が変わるんじゃないかと思って、ケネディスクールの先輩の玉木雄一郎衆議院議員(香川県)の初当選となる選挙を手伝ったりしました。

 ところが、留学中に地方食品卸の再編、統合が起こり、自分が社長を継ぐ必要性が薄れてしまったんです。「どうしよう」とも思いましたが、もともと政策にも興味があったこともあり、大学院卒業後しばらくワシントンのシンクタンクでインターンをした後、当時「日本の産業創造のために戦略、政策、技術の融合が必要だ」と主張していたドリームインキュベータ(DI)に入社しました。またDIは霞ヶ関の知恵袋みたいなこともやっているコンサルティング会社で、当時は霞が関関連の仕事も多くありました。その後、ケネディスクールOBの朝比奈一郎氏が政策シンクタンクを立ち上げるということだったので、より政策に近いところで仕事をしたいと思い、まだ青山のマンションの一室にあった青山社中に参画しました。