(写真:栗原克己)
(写真:栗原克己)

 全国的な猛暑に見舞われていた2006年夏の日本。仙台市郊外にある「仙台ハイランドレースウェイ」では,連日のように「GT-R」の試作車の試験走行が続いていた。その様子を,開発チームの主要メンバーが見守っている。

 サーキットそのものを「開発拠点」にしてしまうのがGT-Rの開発スタイルである。開発に携わる多くの技術者がサーキットに集結し,走行試験で発覚した問題をその日のうちに修正。翌日には完成度を高めた試作車で走行試験を行う。少人数・短期間という厳しい制約条件の中で,開発総責任者の水野和敏は,こうした開発スタイルを確立していった。

 試作車はコーナーを抜け,長い直線に突入した。そして,間髪を入れずにぐんぐんと加速していく。その様子は,遠目でもはっきり分かった。

「こんなに速いのか」

 試作車に初めて同乗した宮川和明は,背もたれに強烈に押し付けられるようなものすごい加速Gを感じつつ,思わず驚嘆の言葉を発していた。恐る恐る速度計に目をやると,針は時速300km近辺を指している。少し先にコーナーが見えるけど大丈夫なのか。しかし,そんな宮川の心配をよそに,隣に座るドライバーはブレーキペダルを踏む気配を一向に見せない。

 まだか? いくら何でも遅すぎるだろう。ドライバーがブレーキペダルに足を掛けたのは,宮川の不安が極限に達する寸前だった。すると,今度は逆に身体がものすごい力で前方に投げ出されそうになる。想像を絶するブレーキの利きだ。この瞬間,先ほどまでの不安はどこに行ってしまったのか,宮川はボディとシャシーを締結しているボルトに思いをはせていた。「あのボルトが緩んでいたら,大変なことになるな」。

混流生産の実現へ

 GT-Rの量産は,栃木工場で行うことになっていた。宮川は,最終組立工程の管理者である。何度も見ていた試作車だが,それまでは実際に乗る機会はなかった。

 一般に,新型車の開発において量産工場のメンバーがサーキットに出向くことなどほとんどない。見るだけならまだしも,乗るとなればなおさらだ。

 本来ならこの場にいないはずの宮川ら栃木工場のメンバーを呼び寄せたのは,水野だ。この多忙な時期に,栃木工場のメンバーを集めて“試乗会”を開催したのは,GT-Rの成否が栃木工場のメンバーの頑張りに懸かっていると水野が考えていたからである。

 水野は,GT-Rのために専用ラインを新設するつもりはなかった。水野は,企画段階で「リーズナブルな販売価格」を商品化の要件に掲げていた。市場で「競合」と目されるクルマの価格は,軽く1000万円を超えている。こうした競合車に走行性能では負けていない。GT-Rというブランドも世界で知られている。とはいえ,グローバル車としては「挑戦者」であることも事実。まずは,GT-Rがどのようなクルマなのかということを知ってもらう必要がある。そういう意味でもリーズナブルな価格という条件は譲れない。具体的には,700万円台というのが企画段階で水野が想定していた水準だった。

 その価格帯を実現するには,既存のラインで造れなければならない。GT-Rの専用ラインなどはもってのほかだ。一つのラインに複数の車種を流す「混流生産」が必要条件となる。実際,GT-Rの専用ラインを新設するという前提で原価を試算してみたところ,販売価格を数千万円に設定しなければ元を取れないという結果が出た。