ドライバーに申し訳ない

水野和敏
水野和敏
日産自動車Infiniti製品開発本部Infiniti製品開発部第二プロジェクト統括グループ車両開発主管 兼 チーフ・プロダクト・スペシャリスト (写真:田中 昌)

 水野が意識していたのは,ゴーンの「究極のロードカー」という表現に込められた,次期GT-Rに対する要求水準の高さである。閉鎖的なスーパーカー市場において,全く新しい価値を提示できなければ,日産自動車が造るクルマなど見向きもされないだろう。

 スカイラインの改良版でそれが可能だろうか。当時の日産自動車の知見をすべてかき集めても,ゴーンの言葉を具現化できないと水野は考えていた。

 スカイラインは悪くない。スカイラインを改良すれば何とかなるという考え方がダメなのだ。そのことを痛烈に感じさせられた経験が,水野にはあった。1995年のル・マン24時間レースだ。

 この時,水野は,R33型スカイラインGT-Rベースの車両で参戦していた。予選はまずまずの結果。しかし,決勝が始まる直前に水野は愕然とする。

「こいつらと競争するのか…」

 スターティング・グリッドでスタートを待っていた「マクラーレンF1 GTR」と「ポルシェ 911 GT2」が強烈な存在感を放っていたからだ。速いのは当然。だが,速さゆえの美しさも感じた。それに比べれば,自分たちのクルマは何とみすぼらしいのか。ドライバーに申し訳ない。まだ決勝が始まる前だというのに,そんな気持ちばかりがわき起こる。

 そのころ,GT-Rは国内のレースでは無類の強さを誇っていた。だから調子に乗っていたと水野は言う。こいつらに絶対に勝てる方法を考えなければならない。固い決意を胸に,水野は帰国の途に就いた。

「スカイラインGT-R」の歴史は,1970年前後に人気を博した「ハコスカ」「ケンメリ」の時代と,1980~1990年代にGT-Rグレードを復活させたことで話題になった時代に分かれている。
「スカイラインGT-R」の歴史は,1970年前後に人気を博した「ハコスカ」「ケンメリ」の時代と,1980~1990年代にGT-Rグレードを復活させたことで話題になった時代に分かれている。
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 そこから生まれたのが,自分たちは単に“造り替え”をやっていただけではないかという反省である。進化といえば聞こえはいい。だが,要するに既存のクルマに新しい開発要素を継ぎ足しているだけだ。外形寸法も車体質量も原価も確実に増えていく。一方,名車と呼ばれるスポーツカーでこうした造り方をしているものは存在しない。

 当然,スカイラインの派生グレードという位置付けがGT-Rブランドの確立に貢献した側面もあるだろう。ブランドストーリーとしてはよくできている。「丸目のテールランプや直6エンジンがなければスカイラインじゃない」と主張するファンが少なからずいるように,GT-Rも「スカイライン(の派生)じゃないGT-Rなど認めない」というファンがいることも事実だ。

 しかし,顧客に対して最高のものを提供するというメーカーの本質に立ち返ったときに,既存のブランドストーリーに乗っかるだけでいいのか。ゼロから造り直さなければ,ゴーンの言う究極のロードカーなど造れないのではないか。そんな思いを抱きながら,水野は時を過ごしていた。