イノベーション理論と物性物理学を専門とする京都大学大学院総合生存学館(思修館)教授の山口栄一氏が、新著『物理学者の墓を訪ねる ひらめきの秘密を求めて』(日経BP社)で偉大な物理学者たちの足跡をたどったことをきっかけに、現代の“賢人”たちと日本の科学やイノベーションの行く末を考える本企画。前回までの天野浩氏に続き、今回からは米パデュー大学H.C.ブラウン特別教授の根岸英一氏との対談である。根岸氏は有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリングによって2010年のノーベル化学賞を受賞した。

 根岸氏のクロスカップリング、通称「根岸カップリング」は2つの有機物を容易に結び付ける技術で、副産物が少なく効率的な有機物合成ができる。創薬技術の進展をはじめ、農薬や電子産業における大量生産に大きく寄与してきた。

 その発見に至るプロセスはいかなるものだったか。また、アメリカで半世紀にわたり研究を続けてきた根岸氏から、日本の科学の現状はどう見えるのか。対談の模様を3回にわたって伝える。(構成は片岡義博=フリー編集者)

日米の教育の違い

山口 根岸さんは東京大学工学部の応用化学科で学ばれています。東大工学部出身のノーベル賞受賞者は初めてですね。

根岸英一氏
根岸英一(ねぎし・えいいち)
1935年満州生まれ。米パデュー大学H.C.ブラウン特別教授。1958年東京大学工学部卒業、帝人入社。1960年フルブライト奨学生として渡米。ペンシルバ二ア大学で博士号取得。パデュー大学、シラキュース大学准教授などを経て1979年パデュー大学教授。有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリングによって2010年にノーベル化学賞受賞。(写真:栗原克己)
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根岸 私は大学を出るまではあまり勉強しませんでした。ラジオとかプレーヤーが好きで、初めは電気工学に憧れて就職先も電機会社と決めていたんです。

山口 東大の理科I類に入られたわけですから、工学部と理学部のどちらにも進めますよね。電気工学に強く惹かれたのに、電気や物理ではなく、あえて化学に進まれたのはなぜなんでしょう。

根岸 当時の電機会社はケチだというんですね(笑)。ちょうど応用化学が興って高分子産業が伸びてきた。それで時代の波に乗ろうと、1958年に今の帝人(当時の社名は「帝国人造絹絲」)に入りました。すぐに(山口県)岩国市の中央研究所に赴任します。すると近くに米軍基地があったので、所内でグループを作って英会話を本格的に勉強し、フルブライト奨学生に応募することにしました。奨学生でも全額支給は200人に1人の難関でしたけれども、何となくその1人になれるような気がしていたんです。それで1960年に結局、休職してアメリカのペンシルバニア大学の博士課程に留学することになりました。

山口 アメリカの大学はいかがでしたか。

根岸 化学は量子力学が根底にあります。東大でそれを教えるべき先生方は第2次世界大戦の学徒動員で量子力学をしっかりと習う機会にめぐまれない方が多かったようです。チャールズ・クールソンの“Valence”を教科書に用いた1年にわたる講義は、われわれ学生側の不勉強もあり、ほとんど何も得ることのないままに終わりました。フルブライト留学生としてアメリカに行くと、私の化学の基礎がゼロに近いわけです。それで大学院1年生から、量子力学とはいえないものの量子化学をやり直しました。これがまた非常によく分かったんです。1960年代の話ですが、日本とアメリカの教育はこんなに違うのかと思い知らされて、それから猛烈に勉強しましたね。

山口 量子力学が分かるとすごく面白くなって、どんどんやる気になった。すごく良く分かります。量子力学くらい神秘的で魅力にあふれ、ときめきを与えてくれる学問はありませんから。

論文のテーマは自分で切り開いた

根岸 基礎から理解していると、最先端の研究から試験問題が出ても、考えているうちに何となく分かるものです。大学院の初めの1年間で毎月1回の“キュムラティブ(Cumulative)”テスト(全18回のうち8回パスする必要あり)では4段階でトップの「エクセレント」を8回連続取りました。その記録はまだ破られていないと思います。

山口 つまり断トツで成績が良かったわけですね。いわば自ら進んで量子力学に目覚め、自ら進んで化学の最先端を切り開こうとした。博士論文のテーマは何だったんですか。