2007年7月から2010年3月まで日経 xTECHの前身サイトの1つ「Tech-On!」で仲森智博編集委員(当時、現・日経BP総研 未来研究所 所長)が執筆したコラム「思索の副作用 」から今でも人気の高い5本を選んで再掲載しました。

 あるリンゴに関していささか憤慨している。いや、リンゴが悪いわけでもそれを育てた人に腹を立てているわけでもない。たまたま「奇跡のリンゴ」という話を聞き、どれどれと調べていくうちに嵐のような賛美の声を目の当たりにし、それを読んでるうちに熱いものが腹の底からこみ上げてきたのである。

 この、奇跡のリンゴなるものの存在を知ったのは、中村修二氏と先日話したことを基に、別の記事を書いている最中だった。聞いてしまったばっかりに、俄然そちらに注意が奪われてしまい、仕事が前に進まなくなってしまった。そんなことで今回は、「それはしばらく後にしたら?」というもう一人の自分の声に抗って、これをテーマにすることにした。というのも、「インチキまくら」とか「天然疑惑」とか、どうも最近この手の話が多いのである。だから、「あぁ、またその手の話ね、聞き飽きたわ」という方も少なからずいらっしゃると思う。それを無理にお引止めすることもできないが、「まあ、しょうがないから聞いてやるか」という心の広い方だけでも、お慈悲をもってしばしお付き合いを願えたらと思う。

死に場所を求めて

 といっても、どんな話なのかさっぱり分からないと思うので、「奇跡のリンゴ」について簡単に説明しておきたい。NHKの人気番組『プロフェッショナル』でも取り上げられ、そのものズバリ『奇跡のリンゴ』なる書籍も出版されている有名な話らしいので、すでにご存知の方はこの項は飛ばしていただければと思う。

 奇跡のリンゴとは、無肥料無農薬で育てたリンゴのこと。それは従来、「絶対不可能」といわれていた。その常識を覆してしまったのが、青森県在住の農家、木村秋則氏である。彼がリンゴの無肥料無農薬栽培を始めたのは20数年前のこと。農薬散布で自身や奥さんが皮膚を傷めてしまったことをきっかけに、この挑戦を思い立つ。しかしそれは、出口の見えない苦悩と挫折の始まりだった。最初の年は前年の残留肥料のせいか順調にリンゴは実った。しかし、初夏になると葉は黄変し落ちてしまう。本来なら花が咲くのは5月中旬だが、この年は落葉した後の9月に花が咲き始め、10月に小さな実ができた。しかしそれは、渋く食べられるものではなかった。

 それから何年もの間、葉は出てくるが花は咲かず、ただひたすら害虫や病気と闘い続ける日々を送る。もちろん、リンゴでの収入はゼロ。その間、夜の繁華街で呼び込みの仕事をしたり、東京に出稼ぎに出てホームレスをしたりで何とか生計を立てる。もちろん、まったく経済的な余裕などない。子どもたちにロクにものを買ってやれず、一つの消しゴムを三人姉妹で切り分けて使うような生活だったらしい。

 それでも状況は変わらない。家族からは疎まれ、世間からは変人扱いされ、ついに彼は自殺を決心した。ロープを持って山に分け入る。そこで出会ったのが、1本のリンゴの木だった。こんなところに、と思い近寄ってよく見ると、それはリンゴではなくドングリの木。誰も肥料や農薬など撒かないのに、とても元気だ。ふと土のにおいが鼻をつく。すくってみると、畑のものとぜんぜん違う。周囲の草を抜こうとしても根が張り抜けない。畑の草はすっと抜けてしまう。そこで気付く。今まで土の上のことしか見ていなかったが、大事なのは土の中なのだと。

 そこから土作りが始まる。山と同じように、ほかの植物をいっしょに植えればいいのではないか。6年目に大豆をばら撒いた。その年から落葉は減っていき、8年目には1本だけが花をつけ、その翌年には畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた・・・。

薬なしでは生きられない

 確かに、無肥料無農薬でリンゴを実らせるというのは相当に難しいことのようだ。以前、その筋の専門家の方に聞いたことがある。さる農業試験場でリンゴの木を多数植えて放置してみたところ、害虫などに食い尽くされ、あるいは病気にかかり、すべての木がボロボロになって最終的にはすべて枯れてしまったのだという。

 もちろん、昔はあったであろう野生のリンゴは、無肥料無農薬でもスクスクと育っていたはずだ。日本でも平安~鎌倉期の文献にはリンゴ(林檎)が登場するそうだが、その子孫である「和林檎」は、あまりおいしくはないらしい。現在日本で栽培されているリンゴは欧州→アメリカと伝えられ、甘くおいしくするために改良を加えられた品種である。でも、私が子供のころにあったリンゴといえば紅玉、国光、それにインドリンゴくらいで、前者の二つはとてもすっぱく、後者は甘いけど何だかジューシーさに欠けるものであった。

 何でも日本人の果物の嗜好は、糖度が高くて果汁が多いことなのだという。そのニーズに応えるべく品種改良はさらに進み、ちょっと調べてみたらえらい種類のリンゴが現に栽培されているようだ。こうした改良の主眼はおいしくすることであり、木を頑強にすることにはない。この結果として、改良に改良を重ねられたリンゴはそもそも、害虫や病気に弱く、高い収量を上げるためには多くの肥料を必要とするようになったというのが、専門家の話である。

 こうしてリンゴは、「おいしいけれど農薬や肥料は必須」という姿になり果ててしまった。木村氏は、それを「想定外」の無肥料無農薬で育てようとしたわけだ。周囲が「不可能」と止めたのもわかるが、それを振り切り、やり遂げるプロセスは、教訓に富む実に感動的なドラマだ。写真をみると、木村氏は今の時代には珍しい、本当に「いい顔」をされている。きっと、素晴らしい方なのだと思う。

腐らないのはいいことか

 なるほど、で、世間はこのリンゴにどう反応しているのだろうか。そう思っていろいろ検索してみると、まあ、ものすごい数のサイトがヒットした。Googleでは118万件もある。もちろん、すべてが木村さんのリンゴに関するものではないだろうが、少なくとも上位のものはみな、それに該当するもののようだ。拾い読みしてみると、まあ、ものすごい。絶賛の嵐である。ご本人の意向はともかく、いつしか神輿のように担ぎ上げられて、なんだかよく分からない状況が生まれているようだ。

 それら賛美の中で、必ずといっていいほど触れられているのが、「奇跡のリンゴは腐らない」ということである。普通のリンゴは、切ったまま置いておくと茶色く変色し、やがて腐ってしまう。ところが奇跡のリンゴは腐ることなく、ドライフルーツのように小さくしぼんで、それでも甘い香りを放っているのだという。「まさに奇跡である。これはすごい」ということで、多くの方がこのことを非常にポジティブにとらえている。

 例えばある方は、「1年前のりんごでも、いい香りを放ち、食べるとアップルパイのようにとろけるうまさ」だったと証言する。そして、それこそ植物の「本来の姿」なのだと力説する。「これは植物全体に言えることですが、本来彼らは、決して腐りはしません。どれもみな枯れてゆくものです。もちろん野菜や果物もです。しかし、今わたしたちが口にする作物のほとんどが、そのまま置いておいたら腐ってしまうものばかり。どこかおかしいですよね」。

 ここまで読んできて、ものすごい疑念が湧き起こってきた。というのも、以前に私はさる自然食品店の店主に、まったく逆の説明を受けたことがあるからだ。「ウチの野菜や果物は、腐りやすいですから早めに食べてください。昔の野菜や果物って、すぐに傷んだものですよね。ウチのも同じです。でも今、スーパーとかで売っている野菜や果物はなかなか腐らない。それは、農薬や防腐剤がふんだんに入っているから。腐るのが普通なのに腐らないのはなぜかって、消費者の方は真剣に考えた方がいいですよ」。

 まったく逆の話ではあるが、どちらも聞くと「うんうん、そうかも」と思ってしまう。でも、よく吟味するとどちらも強固な実証的根拠がありそうな言い分ではない。

 「何だかなぁ」とか思いつつ先を読み進んでいると、リンゴが腐らない理由を「りんご自体に力があるため」などと説明していることを知った。「だから酸化防止剤は不要」なんだと。これを読んでかなり逆上してしまった。何だって言うのよ、その酸化防止剤よりスゴい「ちから」って。そんなワケのわからない説明で一蹴されてしまう酸化防止剤がかわいそうである。

 「まったくぅ」と憤慨しつつさらにいろいろ読み進んでいくと、典型的な「化学物質批判」にぶつかった。

年4kgの添加物が体に蓄積される?

 「農薬肥料汚染された農産物、食品添加物まみれの加工食品。統計によると、現在日本人が1年間に摂取する食品添加物の量は平均して4kgにもなるといわれています。食品添加物のほとんどは正しく体外に排泄されることが難しく、体脂肪等に吸着し、保有毒素として体内に残ると言われています」。だから「一昔前までは聞いたこともなかったような病気が、今ではどんどん増えて」いて「たとえ医学がどれほど進歩したとしてもこの勢いはとめられることはないでしょう」などという。

 ついに切れてしまった。何の統計だか知らないが、1年間に4kgもの食品添加物を摂取していて、しかもそのほとんどが体外に排出されなかったら、毎年4kg近くも体重が増え続け20年も生きていれば人の体はすべて食品添加物で占められてしまうではないか。あり得ない。「一昔前までは聞いたこともない病気」だって、その多くは昔からあったもののはず。医学が進歩したからこそ新たにカテゴライズされ、名称が付与された病気はいくらでもある。

 そのような危険な状況に日本人は置かれていると主張する一部の方たちの見解では、どうも「有機栽培野菜」ですらダメらしい。化学物質を多く摂取している人間や家畜のし尿を使う有機肥料はそれ自体が化学物質によって毒されたもので、それを吸収した野菜は穢れているのだと。だから、無肥料でなければダメなのである。それでも十分に植物は育つ。なぜなら、「元素転換」ということが行われ、不足する元素は他の元素が転換することによって補われるのだという。「その説は一般の化学では異端視されていますが、量子力学の見地からすると、その正当性が成り立ってくるそうです。それは、この説なくして現在の地球上にある全ての元素の生成の原理が説明できないからです。元素転換は常温核融合と同じく、極わずかなエネルギーでも起こり得るといわれています」とのことだ。

 こうした説明の巧妙さは、根拠がありそうな数値や科学的にみえる記述に「植物本来の力」みたいな逃げ道を巧妙に練り込み、人に何かを信じ込ませてしまうところにある。そしてさらにやっかいなのは、こうした論法を使う人のいくばくかが「こう信じ込ませることで何らかの利益を手にできる」立場にある人たちであることだ。それを読んですっかり信じ込んでしまい、無償でその応援をしてしまう人たちも沢山いる。こうしたフォロワーたちの意見は、純粋無垢な心情から発しているが故に、ときとして強い説得力を発揮してしまう。

「理屈っぽいんだから理系の人は」

 誰もが成し遂げられなかった快挙があって、そのプロセスはまさにドラマ。それをNHKのような大メディアが取り上げて権威付けする。それに対して賛美の声が上がり、それに便乗して何かをしたい人が褒め上げ、それが信じられて多くのファンを生んでいく。こうした口コミによる絶大な支持が、一般の人の関心を煽る。けれど、商品数は限られており入手は困難。それでさらに関心が煽られる。世のマーケッタの人たちが知れば「そう、これこれ、これがやりたいわけよ」と膝を打ちそうな、一つの「ヒットのパターン」である。

 うちの奥さんなんかも誰からか「あれはスゴいわよ」とか聞かされると、すぐに買いそうである。入手困難となれば「ネットとかで探してよ、得意でしょそういうの」とかいうありがたいご用命を受けることになるだろう。それが面倒くさいときは「君ねぇ、風評などというものをそのまま信じてはいかんのだよ」などと、妻に説教したりすることもある。するとしばしば「いいじゃない、信じたい人には信じさせておけば。ほんとに理屈っぽいんだから理系の人は」みたいなことを言われたり、いかにもそう言いたそうな目で見られたりする。

 いやいや、そうはいかないと、理屈っぽい、理系であるところの私は思う。宮城谷昌光氏は彼の小説の中で「軽蔑のなかには発見はない」と書かれていたが、同様に「妄信のなかにも発見はない」と思うからだ。まあ、妻からすれば「別に発見なんかなくてもいいじゃん、何も困らないし」ということになるのだろうが。

恋愛は化学反応である

 いやいや、理系である私にとって、発見は無上のものである。だから、それを疎外するものは排除しなければならない。軽蔑や妄信は、その典型例である。それをもっと広くとらえれば「感情」ということであろう。ときとして、感情が思考を停止させるのである。

 そのことを学んだのは、大学に入ってすぐのことだった。応用化学を専攻したから化学の授業だらけなのだが、そんな講義の中である教授がこんな話を始めた。この世に起きるほとんどのことに化学反応は関与しているというのである。その挙句に、こう断言した。「君たちが美しい女性を見て恋愛感情を抱いてしまう。それだって、脳の中でそのような化学反応が起きているだけのことですから」。

 これが私にとっての「理系の洗礼」であった。実際にそれ以降、「ああ、素敵だ、君の声も瞳の色も髪の色さえも…」などと感情がヒートアップする脳の片隅で「いま、自分の頭の中ではどんな化学反応が起きているのだろう」などと思考する小さな回路が常にオンになり続けているのである。自分でもいかがなものかと思うが、「それが正しい理系としての姿勢である」というのが先師の教えなのだから仕方がない。

 もちろん、恋愛だけが感情ではない。ねたみや反感、怒りや怖れも思考停止の要因であろう。もちろんそれらを捨て去ることなどできないが、それに身を委ねつつもそれに支配されなければ思考の停滞はない。そのはずである。けれどもう一つ、気を付けなければならないことがある。それが、軽蔑や妄信の発生原因ともなり得る「先入観」というものである。ときとしてこの先入観が、思考の行き先を誤らせる。誤った思考の先に正しい発見はないのである。10年ほど前、極めて恐ろしい体験をもってこのことを痛感した。

 当時私は、ジャンボジェット機に乗るときは「非常口のところ」の席を指定することを常としていた。非常口があるわけだから当然、その部分は広くなっている。前の席がないため開放感があるし足も思う存分に伸ばせるし、とても快適なのである。で、その日も「非常口のところの席は空いていますか」と空港のカウンター窓口で尋ねてみた。担当の女性はちょっと困ったような顔をしたが、「うんこれだ」という顔でこう言った。「そちらの席はあいにく埋まっておりますが、こちらの席からもスチュワーデスはよく見えます。こちらをお取りしましょうか」。

男はスケベだから

 「はぁ?」と一瞬思ったが、やがて了解し、激しく赤面した。例の席の前は広く空いている。しかし、その部分には折りたためる補助席があって、離着陸のときなどは、スチュワーデスの方々がそこに座る。その距離はけっこう近く、しかも対面座りなのである。そのことを窓口の女性は知っていた。そしてたぶん、頭の中には「男はあまねくドスケベで、あまねくスチュワーデスが猛烈に好きである」という先入観が巣くっていたに違いない。傾向としては近いと思わないでもないが、その強烈な思いが思考の進路を誤らせてしまったようだ。「この人も男だからドスケベでスチュワーデスが大好きである。だからスチュワーデスを近くでまじまじと見たいと思っている。だからその席を指定した」と思考を進めてしまったのであろう。

 ビジネスパーソンとしての彼女の姿勢は賞賛に値する。単に「その席は空いておりません」と突き放すのではなく、顧客の立場に立って、最良の代替案を提案しようとしたのだから。その姿勢のもとで考え、導き出したのが例の席で、そのおかげで私は顔から火が出るくらい恥ずかしい思いをしてしまった。「ひょっとしたら、その席を指定するたびに、いつもそんな目で見られていたのか」と、ずいぶん落ち込みもした。たぶん、彼女が抱いていたであろう「先入観」というもののせいで。

 そうである。感情や先入観を極力排し、スーパークリーンな状態で現象を観察し思考する。そうするよう躾けられてきたのが私たち理系の人間である。たぶん。であれば、その姿勢でもって「奇跡のリンゴ」の奇跡の部分を解きほぐしてみなければならない。そんな、わけの分からない使命感がふつふつと湧いてくる。で、調べつつ考えてみた。大きなお世話かもしれないけど。

腐らない理由

 まず、この「腐らない」ということに関するさまざまな見解について調べてみる。けど、多くの方は「腐らない」→「ありえない」→「奇跡だ」と行き着いて満足してしまうのか、あまり深く考察されている様子がない。あっても、先に触れたような「自然の力」「植物がもつ本来の力が引き出された結果」みたいなことばかりである。ちょっとガッカリしていたら、新たな発見があった。やはり無肥料で育てた茄子も、切っても変色せず、真っ白なままなのだという。どうやらリンゴだけではないらしい。けれどその理由は深くは考察されておらず、「考えてみると、本来タネは、最も大事な子孫です。そのタネを包む果実は、植物にとって、最も清潔に保たなければならない部分でしょう。いつまでも白い果肉には、植物の悲しく美しい願いが込められているのかもしれません」と結んでいる。

 そんななか、異彩を放つブログ記事へのコメントを見つけた。味について彼は「私の舌が鈍感なのかもしれませんが、普通の美味しいリンゴ、でした。横に同じ品種の物を並べて食べ比べれば、ワインと同じく、違いがわかるのかもしれません」と書く。多くの人が「さすが無肥料無農薬はぜんぜん違う」と大絶賛している中にあって、この意見は断然目立つ。ひょっとしたら、理系か。

 さらに冷静な観察が続く。「木村さんのリンゴは、皮を触るとそのねっとり感にちょっと驚きます。りんごが自分を守るために分泌するワックス成分が普通に流通している物よりも、多いように思います。だから上手にドライフルーツになるのかもしれません」というのだ。この意見は、私が立てた仮説に近いものである。つまり、肥料を使わず農薬を撒かずという過酷な環境を植物に与えることで、植物の自己防衛機能が高められているのではということだ。その防衛力を「植物がもつ本来の力」と呼ぶのであれば、それが強化されているという大方の意見は正しいのかもしれない。けどそれを、「だから安全」「だからおいしい」「だから体にいい」というところに結びつけることはできるのだろうか。

 で、調べてみたら、あった。こうした防衛機能には「物理防衛」と「化学防衛」の2種類があるらしい。このうち物理防衛は、実を固い皮やイガ栗のようなトゲで全身を覆うなど、物理的な方法で自身を防衛する方法である。リンゴの場合は、どうもそれはあてはまりそうにない。残る手段は、化学防衛である。

農薬様物質を自ら作り出す

 大学の農学部などでは、このことをちゃんと教えている。私が探し当てた玉川大学農学部のシラバスにも載っていた。えてしてまっとうな見解というものは、このように目立たないところに、ひっそりと生息しているものなのである。で、その講義の担当教授がまず言う。「植物は人や虫、あるいは菌に食べられるために生きているのではない」。おお、確かにそうである。しかも深い。さすが筋金入りの理系の先達は言うことが違う。ところがそんな植物は、生存を脅かす外敵から物理的に移動して逃げることができないし、高等動物が持っている免疫のような防御機構も持っていない。けれど、植物は黙って病気にかかったり虫に食われたりしてしまうわけではなく、それらに抵抗する手段を持っている。例えば、「病原菌の感染を受けると、植物体内で天然の農薬とも言えるファイトアレキシンという抗菌性物質を作って、病原菌をやっつけようと」するらしい。

 このように、殺菌成分群を植物は自ら合成し体内に蓄積している。病原菌が感染すると別の殺菌成分群も合成し自らの体を病原菌から守ろうともする。つまり、「無農薬栽培をしても天然の農薬様物質が作物には含まれている」のである。だから、「天然物は決して安全な物ではない」と説明する。

 その、自身で農薬や抗菌化学物質を合成する植物を無肥料無農薬の過酷な状況で育てればどうなるか。私が植物であれば、自身内にある農薬工場をフル稼働させ、病原菌や害虫の侵入に備えるだろう。それでも不足であれば、工場を増設し来る年に備える。そうなれば、無農薬で育てたリンゴは農薬を施して育てたリンゴより、その実のうちに多くの種類の、あるいはより高い濃度の、農薬と同等の働きをする化学物質を含むようになるはずである。

それでも腐らないことはいいことか

 実際、こんな話がある。米国国立大気研究センターの研究チームは、植物が干ばつや季節外れの気温といったストレスに対応する際、大気中に大量のアスピリン化合物を放出することを発見した。解熱剤のアスピリンを外部から取り入れなければならない人間と異なり、植物には自らアスピリンに似た化学物質を生成する能力がある。それによって自己防御能力を高めたり、傷を和らげたりするのだと説明されている。

 リンゴに関する実験結果もある。近畿大学農学部の森山達哉講師の研究によれば、農薬を使用して育てたリンゴより無農薬で育てたリンゴで、多くのアレルゲン(アレルギーの原因となる化学物質)が検出された。つまり、無農薬で栽培され病原菌や害虫から何らかの攻撃を受けた野菜や果物は、自らを守るための防御物質を多く作り出すということだ。個人差はあるが、無農薬の野菜や果物を食べた人がアレルギーを発症するリスクは、農薬を使用した作物を食べる場合よりむしろ大きくなると、ある記事では警告していた。「アレルギーの人こそ化学物質に冒されていない無農薬野菜を」などという風評とは逆の結果である。

 こうした研究から推測できるのは、「腐らない」ということは、奇跡のリンゴが他のリンゴより、自己合成した殺菌物質や農薬様化学物質を多く含んでいるのではないかということである。あくまで仮説であって断言できることではないが、そう疑ってみなければならないと思うし、少なくとも「植物本来の力があるからおいしい、体にいい」などという評判を無邪気に信じてはならないと、理系である私は思う。

 専門家と呼ばれる理系の方たちも同じ思いを抱いているのではないかと思う。たとえば、こんな調査結果があるらしい。いろいろ調べたが出典がわからないので、とりあえず記事に記載されている数字をそのまま挙げてみると、発ガン物質含有に関する調査で主婦とガン免疫学者の捉え方について比べたところ、主婦の43.5%が食品添加物を「発ガン性が高い」と答えているのに対し、免疫学者はほんの1%しかそうは答えなかった。農薬は主婦が24%で免疫学者が0%。一方で普通の食品では、主婦の0%に対して免疫学者の35%が発がん性を指摘している。専門家からすれば「認可されている農薬や食品添加物は、その安全性が確認されているので安心だが、普通の食品にはどんな物質が含まれているかが不明で不安」ということになるのだろう。

それが理系の生きる道

 「・・・てなことで、それが腐らない原因だと思うわけ」と、渾身の調査結果を妻に報告してみた。すると、さすがに少しは真剣に考え直そうという気になったようだ。「ふーん、さすがに理系ね」などと、ちょっと褒めてみたりもする。でも、くやしまぎれにこんなことも言う。「でも、みんながおいしいって言ってるのよ。食べてみたくないの?」。

 もちろん食べてみたい。いや、食べなければならない。仮説を立てたら次は実験。理系はそうあるべきなのである。