2007年7月から2010年3月まで日経 xTECHの前身サイトの1つ「Tech-On!」で仲森智博編集委員(当時、現・日経BP総研 未来研究所 所長)が執筆したコラム「思索の副作用 」から今でも人気の高い5本を選んで再掲載しました。

 「どーですか最近」と、コンサルタントをやっている知人に聞いてみたら、意外なことに「この不況でさすがに価格交渉は厳しくなったけど、依頼は逆に増えてきているかも」などという答えが返ってきた。「まあ、それだけ危機感が強まっているということかなぁ」と。

 考えてみれば、私たちはこのところずーっと、危機感を抱きっぱなしである。バブル経済の崩壊でえらいことになって、ちっとも回復できないまま日本は長期にわたる不況期に突入し、後に「失われた10年」とか「いや20年」とか呼ばれることになった。「このままではマジヤバイかも」と多くの企業が危機感のボルテージを上げ、新興国の目覚しい躍進ぶりを目の当たりにしてそれが一層高まり、世界不況の到来でとうとう沸点に達したということか。

 「大変だぁ」ということで、多くの企業が現状を打破すべく「改革」をぶち上げた。節目では大規模なリストラを断行し、継続的に優良とされる企業を手本として学び、さらにはコンサルタントの指導を受け、給与制度改革の一環としての成果主義の導入、シックスシグマ、R&Dマネージメントにおけるステージゲート法、業務の可視化など、各種改善運動を繰り広げ、業務効率化、コスト削減のための改革手法を導入し・・・。

だから技術経営、だったはず

 「よーし、われわれも」ということでここ10年近く、「技術経営」を看板に掲げ、優れた企業戦略とそれを実現するための手法を広めるという仕事に、思い入れをもって取り組んできたつもりでいる。「お前ごときが世間の役に立つ何ごとかできると思うとは、何と傲慢な」とお叱りを受けそうだが、本人は至って真剣であった。多くの技術者たちが「技術はスゴいんだけどカネ儲けがヘタでねぇ」と言いつつ低い待遇に甘んじている状況は、元技術者の自分からすれば到底納得できるものではなく、「だったら、技術の優位性に見合うだけの収益力を手に入れればいいじゃん」と考え、「そうすれば技術者の処遇は改善し、多くの人がさらに意欲を高めつつスゴい仕事に挑むようになるはず」などと期待したのである。

 私がというより、多くの方が同じことを考えていたはずである。経済産業省は今年2月にまとめた『日本の産業を巡る現状と課題』の中で、「主な検討事項(予定)」として真っ先に「なぜ、技術で勝って、事業や利益で負けるのか?」という項目を挙げていたらしい。けど、お役所はともかく、民間では「それこそ問題だ」という意識はずっと以前から多くの方に共有されていたように思う。

 で、「改革」である。大きくは雇用を見直し、体制を変え、ミクロにはさまざまな手法を導入し職場で展開した。こうして改革は日常の風景となり、ある部分で日本の企業はすっかり面目を一新したのである。

 で、何かよくなったのだろうか。

 個別に聞いてみれば「○○手法の導入で作業効率は1.7倍になった」とか「研究開発の投資効率が34%向上した」とかいうことかもしれない。けど、ざっくりトータルにみたとき、「いろいろやってるみたいだけど、全体としては何だかちっともよくなってきているような気がしないんですけど」というのが正直な感想なのである。いや、ちゃんとやってそれなりに効果は上がっているのだが、それを上回る速度で企業環境が悪化しているだけ、ということなのだろうか。

 それとも、メーカーが「○○に取り組んでいます」と高言する割に、実はたいしたことはやってないということなのか。いや、会社は本気だけど、社員がついてきていないとか。それには、ちょっと思い当たる節もある。

 私がメーカーに勤務していたころは、まだまだ未来は明るくみえていて、「抜本的な業務改革」みたいなことはあまりやってなかったように思う。それでもQCや実験計画法の習得など、基本的なことは仕込まれたのだが、その一つに、「KYT」というものがあった。「空気読めない田中さん」ではなく「危険予知トレーニング」の略である。

 そのネーミングにまずムカっときた。「危険と予知は日本語のローマ字表記でトレーニングは英語のままか?それなら訓練とかにせんかい」と。われながら、あきれるほどの狭量ぶりである。憤慨しつつも研修は受けた。まず、イラストが配られる。そこには、ツッカケ履きでポケットに手をつっこみ、ヘラヘラと道を歩いている作業着の従業員らしき人間が描かれている。それを見て、「このどこに危険が潜んでいるか」を答えさせるのである。

 意図は分かる。「ツッカケは転倒しやすいからNG」とか「ポケットに手を入れていると転倒したときにケガをしやすいから慎むべし」と答えさせたいわけだ。けど私はイラストが稚拙であることをいいことに「こんなちっこい目で前が見えるはずがない、危険」とか「足が地についてない、超危険」といった不穏当な発言を繰り返していた。イヤなヤツである。で、ついには指導官の逆鱗に触れ「廊下で見張りをしているように」と申し渡されるに至るわけだ。

 その結末はともかく、要するにそのような「手法」の習得に不熱心で、もっといえば反発があったのである。その反発が、何に起因するものなのかはよく分からないところなのだが、事実として同期にも、同じような反発を抱く「同志」が少なからずいた。あの雰囲気を思えば、「改革手法を従業員間に徹底させるのって、そう易しいことではないだろうな」と思うのである。

改革の副作用

 まあ、そんなことも多少はあるかもしれない。けど、それが支配的要因というやつなのだろうか。個人的には、違うのではと疑っている。何だかもっと本質的な問題があるのではないかと。

 例えば、「クスリ」だと思って服用した「改革手法」は、実はその症状にはあまり効能を示さず、副作用ばかりが目立ってしまっているとか。クスリは、いつでもどんな人にでもどんな状況にでも効くわけではない。ところが副作用という弊害はちゃんと発現し、状況によってはそれが深刻な状況を招いたりもする。同様に、せっかく○○手法を導入しても、正の効果を負の効果が相殺してしまったり、むしろ負の効果ばかりが目立ってしまったりするようなことだってあるだろう。

 そんな例として以前、「成果主義の弊害と弊害と弊害」という題目でこの制度の負の効果について書かせていただいたことがある。私自身が疑問を感じるだけでなく、実際に多くの方が「成果主義の導入によって、全体としてはモチベーションの低下が目立つようになり、かつ会社への忠誠心が著しく低下した」と指摘しておられたからである。

 ただそれは導入後に語られるようになったことで、日本の企業はある時期こぞってこの制度を高く評価し取り入れた。格闘ゲーム風に説明すれば、こんな机上の計算があったのではなかろうか。

 従業員の100%が同じ給料であれば、平均能力値1.0×平均士気値1.0×100で、総戦闘力は100。そこへ成果主義を導入し、給料に差をつければ、半分の人は給料が増え士気も上がり、半分の人は給料が減って士気も下がる。上がった方のグループは平均値的に能力が高い人たちだから、例えば平均能力値1.5×平均士気値1.5×50で戦闘力は112.5、下がる人は0.5×0.5×50=12.5で、これらを足せば総戦闘力は125となる。

 そんな胸算用があったなら、「ちょっと制度を変えるだけで25%も戦闘力が上がるの?だったら給与総額を少し減らしてもOKだね」ということになるだろう。弊害を気にする声があっても、「これだけ効果があるんだから、弊害なんて気にしてらんないよ。何?辞めちゃう人が出るって?どうせそれは士気が下がるやつ、つまりは能力の低いやつらだろ?それならむしろ大歓迎だよ、ハッハッハ」などと経営者は笑い飛ばせたかもしれない。

 けど、専門家によれば、人は程度の差こそあれ自身の評価は甘く、他人の評価は辛くなりがちで、極めて公正な評価をしたとしても多くの人が「不当に低い評価を受けた」と感じるのだという。さらに、行動経済学の原則によれば、人は「損をした」ときに「得をした」ときの3倍大きな精神的ショックを受けるなどという。

 これらの要素を盛り込むと、上の計算は大きく変わってくる。まず、「半分の人は士気が上がり、ほかは下がる」というのは間違いで、ごく一部の人だけ士気が上がり、大多数の人は下がるということになるだろう。その比率を25%、75%とし、各平均能力値を0.25ずつシフトし1.75、0.75とする。さらに、士気値を「3倍法則」に従って修正すれば、1.2、0.4となるかもしれない。そこで戦闘力を再計算してみると、1.75×1.2×25+0.75×0.4×75=75となり、導入前より逆に25%も企業の戦闘力が低下するということになってしまうのである。

 まあ、極めて乱暴な計算だから、数字自体に意味はない。けれども、ちょっと前提を変えるだけで「効果的」と思っていたものが「実は弊害の方が大きいかも」ということになりかねない、という部分はその通りなのではないかと思っている。

効率化で失うもの

 例えば、いま手掛けている書籍にこんな話が出てくる。著者は「開発プロセスの改革」を手掛けるコンサルタントなのだが、このところ「技術者がものを考えなくなってきた」との声を現場で聞くことがめっきり増えたといい、その原因について以下のように分析している。

 その最大の要因に、多くの技術者がうすうす気付いているように「設計効率化のみを追い求めすぎてきたこと」があるのだろう。昨今、技術者に求められていることは、期間を短縮する、設計工数を削減するなど、「減らす」ことばかりである。以前より安いコスト、短い開発期間で完了させることが求められ、実際に以前より少ない予算と短い期間しか与えられなくなっている。時間的にも資金的にも余裕がないから、チャレンジをしない。チャレンジをしないなら工夫を盛り込む必要はない。工夫がなくても済むようにと過去をトレースする。まねをする。まねをするだけなら、考える必要などないだろう。
 検証をする上長の側の事情も同じである。期限までに時間的な余裕がない。時間がないから検証が疎かになる。検証が疎かになっていることが分かっているから、開発担当者も深く検討しないまま検証会に出てしまう。こうして、益々考えることが疎かになっていく。

 すなわち、コスト削減と引き換えに創造力が失われているという指摘である。やはりコンサルタントをやっている友人に「こんな説があるんだけど」と聞いてみると、深く頷きながら「そうそう、考えないというより、考えてもムダという雰囲気が蔓延するんだよね。それがヤバいのだ」という。いわゆる「士気の低下」が重大な結果をもたらすのだと主張したいらしい。

 士気、あるいはモチベーションと呼ばれるものの低下は、それ自体が生産性を低下させる大きなリスク要因だが、それによって挑戦する気概は消え、こぞって保身に走るようになるという副次的な弊害を招く。その結果として、せっかく卓越した創造力を持っていても、それが発揮されることはなくなるのである。「使わない機能は退化するもので、そんなことをしばらく続けていると、もう二度と昔には還れなくなるわけ。結局のところ、コスト削減分以上のものを失っているんじゃないかと思えるケースがけっこうあるんだよね」などと恐ろしいことをおっしゃる。

「おびえる労働者」

 こんなデータがある。NTTレゾナントが中小企業を対象に実施した調査結果によれば、企業が実施したコスト削減によって社員の6割以上が「モチベーションは下がる」と答えた。経営層も認識はあまり変わらず、過半数は「コスト削減が社員のモチベーションを下げる要因になっている」と考えているのである。では、何とかしたかと思えば、そうでもないらしい。社員間で不満が出ていると感じている経営層のうち、対応策を実施していると答えた人はその約3割にとどまっているのである。

 多くの経営層がそれを放置している理由は、一つしか考えられない。「モチベーションの低下」や「従業員の不満」による損失を小さく見積もっているのである。その損失よりは、コスト削減によって得られる効果の方が圧倒的に大きいだろうと。もちろん、タダで簡単にモチベーションを高める方法があるなら、すぐにでもやるだろう。けど、そんな便利な方法がそう簡単にみつかるわけもない。

 この、「従業員の不満によるモチベーションの低下に関して、そう神経質になる必要はない」という考えも、米国から緊急輸入した経営手法の一つなのかもしれない。

 かつて米国のビジネススクールでは、「ハッピー・ワーカー(幸せな労働者)」と呼ばれるモデルが基本原理とされてきた。すなわち、満足度が高い従業員は低い従業員より生産性が高く、結果として従業員満足度を高めた企業は業績も良くなるという考え方である。ところが、経営学者のピーター・キャペリは、このモデルは1980年代に米国では事実上消滅し、「フライテンド・ワーカー(おびえる労働者)」モデルに取って代わられたという。満足度ではなく、減給や降格、失職などへの恐怖が従業員に規律とパフォーマンスを保たせるのだとの考えである。

 かつて「日本的経営」の要諦とされてきたものに終身雇用や年功序列、充実した社内人材育成制度などがあるが、これらは米国の主要企業においてもかつては、広く採用されていた制度だったらしい。ところが80年代に入って産業界が不振に陥るや、大規模なリストラや業態縮小が不可避となり、これまでの雇用関係は完全に崩壊した。

おびえるはずがハッピーに?

 ピーター・キャペリは著書『雇用の未来』の中で、80年代以前の雇用関係を「オールド・ディール」と呼び、それ以降のモデルを 「ニュー・ディール」と呼んでいる。

 ニュー・ディールは、市場原理に基づく雇用契約で、この導入によって雇用保障の低下、従業員に課せられるリスクの増大、社内人材育成制度の縮小などが起こった。「会社の役に立っている間は重宝させてもらうけど、使えなくなったらポイしちゃう」という、米国の今日的雇用関係はこの時期に出現したようだ。

 一つには、日本の台頭などによって米国の産業界が「そうせざるを得ない」状態まで追い詰められていたということがあるだろう。さらには、「ハッピー・ワーカー・モデルって、違うかも」という新たな学説が、それを後押ししたようだ。

 すなわち、こういうことである。そもそも従業員満足度と企業業績の間に強い相関性があるかについては諸説があり、まあ、よく分からない。たとえそれがあるとしても、それは従業員満足度が高いから企業の業績が上がるのではなく、業績が上がっているから従業員満足度が高くなっているだけ。そんな説が、統計的に導き出された結論として出てきた。

 学説より実際に、米国で終身雇用や年功序列、社内人材育成制度が崩壊した結果として何が起こったかを見てみる方が早いかもしれない。専門家によれば、従業員の企業に対する信頼や忠誠心は霧散し、モラールは低下した。雇用は激しい流動化をはじめ、優秀な人材は高額のオファーでどんどん引き抜かれるようになり、従業員は「履歴書に箔がつく」仕事を求め、汎用性に乏しい技能を磨くことや部下の育成などへの興味を失った。要するに、企業が「損得」で行動するようになったら、従業員もまた自分の「損得」だけを唯一の基準として行動するようになったのである。まあ、当然のことだろうが。

 しかし、まことに不思議なことながら、その結果として米国では生産性は低下せず、むしろ向上したという。その理由はさまざまに考察されているようだが、その一つに、「90年代に入るとIT化を追い風に米国の景況は上向き、その好況感がモラールやモチベーションを高めて生産性が向上した」との見方がある。リソースの流動化がイノベーションを誘発し、それによって好況が出現した。

 景気がよければ、クビになる可能性は低くなる。クビになったとしても、再就職に困るようなことはなさそうだ。むしろ積極的に職場を点々と変えることで収入はどんどん増えていったりする。リソースの流動化によって企業は「従業員をつなぎとめるためには多額の給与を約束しなければならない」ということが当たり前になったからだ。つまり、フライテンド・ワーカー・モデル下にありながら、実態として多くのワーカーたちは、おびえているどころかいたって満足度が高く、ハッピーだったということらしい。

真似れば日本もハッピー?

 多くの米国企業はこのことによって「あ、これでいいのね、大丈夫なのね」と自信を深めたことだろう。その証拠に、この雇用関係が「米国スタイル」として定着していった。けど、それはあくまで「景気がよく失業率が低い」状況であれば大丈夫だった、ということにすぎない。実際、多くの専門家たちは、景気後退局面において、フライテンド・ワーカー・モデルの弊害が露呈することを懸念している。失業率は急上昇し、「業績が上がることで維持されていた満足感」も消失する。この状態で生産性が維持できるかどうか。

 そんな懸念をよそに、不況にあえぐ多くの日本企業は、人員整理を伴うリストラを断行し、成果主義を取り入れた。つまり、日本が米国モデルを模倣し、ハッピー・ワーカー・モデルと訣別し、フライテンド・ワーカー・モデルへと乗り換えたのである。

 「そのモデルは不況下においてどのような効果と弊害をもたらすか」という実験は、目下進行中である。リーマンショックを引き金とする大不況に対応すべく、米国では雇用調整が「いつものように」遂行され、失業率は80年代初頭と同じく10%近くに達した。日本も今回はハデにやった。その結果、失業率は5%台まで急上昇した。

 ちなみに、あのバブル崩壊時ですら失業率が大きく跳ね上がることはなかった。直後で2%。年次推移をみると、その後数年間の上昇もきわめてゆるやかである。それから20年近くが経過して分かったことは、「雇用」ということに対する企業の意識が大きく変わっていたということだ。

 このことは、消費行動に大きな影響を及ぼした。雇用不安、所得減少の影響で内需は凍りつき、そのことがさらに不況を深刻化させるという負のスパイラルに陥ったのである。で、企業の生産性や創造性はどうなったのだろうか。労働者は震え上がって、結果としてバリバリ働き、どんどん優れたアイデアをひねり出せるようになったのだろうか。何だかそんな気はしないんだけど。

技術者の「進化」

 いやいや、心配なのはこのことばかりではない。

 技術経営の「イロハ」ということで吹聴してきた「選択と集中」も「大いに弊害あり」と、リストラ経験をもつ技術者の友人から聞いた。彼によれば、「選択と集中」と経営者が呼ぶのは要するに「事業の統廃合を伴うリストラ」であって、これによって技術者のような技能職の人が専門外の仕事を強いられるケースが多発しているのだという。ひどい例では、それに便乗して「希望退職者を増やすためにわざと本人が好まない部署に異動させる」こともあるのだとか。

「本人のキャリアを考えて、とか言われるけど、本当はそんなことまったく考えてないんじゃないかって疑うよね。ある部門がなくなったら、テキトーに分けて飛ばしちゃう。だーっと並んだ社員番号リストをながめて何も知らない事務担当者が、はいこの人はA事業所、次ぎはB事業所なんて数字合わせをしながら書き込んでるだけじゃないかって」

 たぶん担当者に聞けば、合理的な理由はあるのだろう。だがそこに思惑とか好き嫌いとか無神経さとか、そんなものがブレンドされていくうちに何だかよくわからないものが出来上がり、それが第三者に「何も考えてないよね」という印象を与えてしまうのかもしれない。気を付けなければならないのは、そもそもはあった合理的な理由ではなく、出来上がったものが実際に社内、社外にどのような印象を与えたかという「結果」だろう。

「社員なんて無力なもんよ。辞令一つでまったく専門外の部署に行かなきゃならなくなったりする。会社は『時代が変われば技術も変わる、それに適応するために進化を続けるのが技術者の使命』なんて言うけど、本人はガックリだよね。前の部門では頼れるベテラン設計者として尊敬されていた人が、いきなり何も知らない新人同然の立場に置かれるわけだし。それですっかり腐って、希望退職の募集とかあると真っ先に手を挙げる。その様子をみて、元からいた技術者もすっかり萎えてしまうわけ。会社のことなんて考えてる場合じゃないぞ、それより前に自分があぶないって」

 専門外どころか、技術者が非技術部門に飛ばされることも珍しくなくなった。そんな話を聞いて思い出したのが、マツダのことである。70年代前半、オイルショックの影響で同社は経営危機に陥った。当時は広島に住んでいたので、同級生や近所に「親はマツダに勤めている」というやつがごろごろいて、「オヤジが単身赴任になっちゃった」という話をひんぱんに聞いたものである。

 生産調整で技能職や技術職の社員が余剰になったのである。今なら「即、希望退職募集」ということになるのかもしれないが、当時はあまりそのようなこともせず、「営業力強化」をもくろみ地方の営業所などへ余剰人員を大量に送り込んだ。それから数十年を経て、当時の事情をよく知る元マツダの方にお会いする機会があり、あの施策がどのような効果を生んだかを聞いてみたことがある。

 「いや、いい勉強になりました」というのが、その方の感想だった。「それまでは現場にこもって、ひたすら開発をやっていたわけです。まあ、井の中の蛙になっていたわけですね。そんな人たちが強引にお客さんの前に引っ張り出され、自社製品の文句とかを聞かされるわけですから」。その経験が、彼には貴重な財産になったようだ。

 もっとも、成績はさっぱりだったらしい。中には、自分の中に意外な才能を発見し、そのまま営業職にとどまりたいという人もいた。だが、大多数の人たちは営業の仕事などやったこともやってみたいと思ったこともなく、そんな素人が好成績を上げられるほど世間は甘くはない。それですっかり憔悴し、現場に復帰できる日を指折り数えて待っていたのだと。技術者にとってはいい勉強になったけど、技術者自身も会社もそれに相応の授業料を払った、ということだろう。

研究者の商法

 技術経営の教えにも、「技術者や研究者といえども顧客のことを知らなければならない」というものがある。実際、著名な技術者、研究者の中には、「研究開発もやったけど、お客さん回りもずいぶんやって、その中で多くのことを吸収した」と証言される方が多い。だから、雑誌などでもそのことが「成功の秘訣」として語られることが多いのである。もちろん私も、そんな記事を多く世に送り出してきた。

 けど、「研究者の顧客回り」は本来、あくまで「勉強」であり「芸の肥やし」のはずである。それを伝え切れなかったのではないかという悔恨の念がある。これまで紹介してきた成功談は、販売を伸ばす手段とみなされてしまったのではないかと。「そうだ、ウチでもあいつらにモノを売らせればいいんだ」などということになり、「やらせるからには相応の成果を期待するぞ」などと意気込んでしまい・・・。

 以前、ある大手企業の研究者の方から「売り込み」を受けたことがある。「画期的な技術を開発したので、聞いて欲しい」ということだった。さっそく先方の研究所に出向くと、いかにも研究者という感じの方が一人で出てこられ、試作品を前に技術のインパクトとか、アプリケーションの多様さとか、実用化が容易であることとかをぽそぽそと説明し始めたのである。申し訳ないとは思うけど、かなり苦痛だった。何か棒読みだし、覇気はゼロだし。

 たまりかねて、「不躾ながら」と聞いてみた。「なんだか、あまり気が進まない風ですけど」と。すると彼は、すこしはにかみながら、こんなカラクリを明かしてくれた。

「こういうことには慣れてないし、うまくもないし、でも会社の方針転換で、研究員も自分で研究成果を売れってことになって、売れないものはテーマを見直すとか言われて、といっても、何をしていいかよく分からないんで、目に付いた回覧雑誌の編集部に電話すれば何とかなるかと思って、いや、ご迷惑をおかけして、す、すみません・・・」

 ちょっとしんみりしてしまった。苦労されているなぁと。けど、その苦労は報われるのかどうか。会社が「勉強させよう」という意識で苦労を強いているのなら、まあいい。本人が進んでそれに立ち向かおうとされているのであれば、それもまたいい。けどたぶん、本人はそのことを強いられ、「おびえ」からそれを是非もなく実行しているに過ぎず、たぶん会社は「勉強させるため」ではなく「数字を上げるため」にそれを思い立ち、結果を期待しているのである。それが、何か「いいこと」につながるのだろうか。何か「いいもの」をもたらすのだろうか。

 ただ分かるのは、フライテンド・ワーカー・モデル下においては、「研究者の営業活動」に限らずどのような施策であっても従業員は受け入れざるを得ないだろうということだ。どうせやることになるのだから「本当に意味があるのか」などと考えても意味がない。指示を出す側、すなわち経営陣の賢明さを信じ、黙々と実践するしかないのである。「その賢明さに疑念がある」ということになれば会社を辞めるしかないが、簡単に辞められるようなご時勢でもないだろうし。

かくして武器は無効化する

 いや、そうでもないのかもしれない。「最近の若い人たちはすぐに辞めちゃう」という話をよく聞く。壮絶な就活の末にやっと見つけた就職先であっても、何ともあっけなく辞めていくのだと。語呂よく「入社3年で1/3の若者が会社を辞める」などと言ったりするらしい。

 もちろん、辞めない人もたくさんいるのだけれど、そんな人たちも、「出世意欲が極めて薄い」という。そういえば、何年か前に「日本の高校生は米中韓の高校生よりも出世意欲が低く、ダントツの最下位」などというニュースを読んだことがある。識者の方々は「豊かな時代に育ってハングリーさを失ったから」とか「職業に魅力や権威がなくなっているから」と分析しておられたが、そうなんだろうか。

 私には、いまどきの若い人たちのそういった「気分」は、フライテンド・ワーカー・モデルへの順応策として彼らが無意識のうちに会得したものなのではないかという気がしてならない。「会社での地位や給料は気にしません」「辞めさせられる前に辞めちゃいます」という姿勢は、「会社での地位や給料、さらには雇用そのものの決定権を握っているんだぞ」という、会社が従業員を御するための武器を無効化するからだ。つまり、ハッピー・ワーカー・モデルはモーレツ社員や「24時間闘える」企業戦士を生んだが、新型のフライテンド・ワーカー・モデルはそれを「いまどきの若者」に変身させたのではないかと。

 環境の変化に自身を順応させていくことを進化と呼ぶのであれば、これも立派な進化というものではないかと思うのである。